認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症5年目/2021~2022年、79~80才)

↑こちらの続きです。

 

9月18日(日)

退院。

この日、俺は朝5時に起きてある人を送りに行っていた。

思えば、これは”予行演習”だったのかも?

 

この日と次の日は珍しく電車で母ちゃんのいる施設に行った。

バイクで行けば往復の交通費が4分の1以下なんだが、この2日間は台風が来ていたので。

台風が来る中、退院というのも迷惑なのか、印象深くていいのか?

 

話を戻して、

俺は指定された時間より30分前に病院に着き、退院手続きを済ませた。

そして、また1ヶ月直接会えなかった母ちゃんに会う。

”別れへの退院”だけど・・・。

 

この時もこの病院ではあり得ないことが色々あったが、まあそれはまた後日。

唯一救われたのが、見送りに来てくれた1人の看護師の言葉。

俺が母ちゃんに「病院の人に面倒かけなかった?大丈夫だった?」と話しかけてたら、その看護師が「大丈夫でしたよ。でもお元気でベッドの上で動かれてて♪」と。

そう!それでこそ母ちゃん!

じっとしているの嫌いだもんねw

入院中の状況を唯一伝えてくれたこの人だけが、この病院で少しは良かったところ。

 

迎えに来てくれた施設の車に少し遅れて俺も施設に到着。

若干、雨風は強かったが、そこまでひどくなかったのが不幸中の幸い。

施設に到着し、母ちゃんも俺も抗原検査を受け、結果が出るまで入口近くのフロアーで時間をつぶす。

7月の退院時と違い、この時の母ちゃんは反応が多い気がする。

ただし、気難しい顔をしていることが多かった。

 

そして、1回俺は施設を離れ、親父と兄貴を迎えに行き施設に戻った。

親父は7月以来に会ったのだが、母ちゃんの痩せ方にこの時ショックを受けたらしい。

そして、帰り際に屁理屈で施設相手に怒鳴るのだが・・・。

それは置いておく。

 

今回の退院は施設に対し“おみとり”を条件に受け入れてもらったので、基本的には口から食べることができないので衰弱していくだけ。

この段階から「お好きなものを食べてもらって大丈夫です」と。

また、この施設では「無理はしませんので、食べられるか試すことはしてみます」と有り難い配慮をしてくれた。

とはいえ、ちゃんとした食事は無理なので、プリンとかヨーグルトとか、「餃子が好きだったんですよ」と伝えると、「餃子なら中の餡を小さくしてあげられるかも?」と色々考えてくれた。

 

そもそも”おみとり”とは、”病院が”『もう口から栄養を取ることができない』と判断することにより発生するらしい。

そのため施設がどうのこうのということもあるかも知れないが、基本的に施設は病院の方針に従う。

今回母ちゃんは最悪の病院の判断により”おみとり”になる。

が、もちろん最悪の病院とはいえ、それなりの判断ではあるのだが。

 

さらにこの施設では、コロナ禍でも”おみとり”であれば、いつでも”面会”をさせてくれる。

これ、あり得ないくらいありがたいこと!

一応10分しかダメだけど(^^ゞ

 

そして、この日。

俺は初めて葬儀屋を訪れる。

元々母ちゃんはできた人で、葬儀屋に2口積み立てをしていた。

まあ、1口は親父が解約し、そのお金を使い込んでいたこともこの時俺は初めて知ったのだが。

残り1口は保留としていたらしく、途中から積み立てはしていなかったのだが解約まではしていなかったので、未だに会員扱いということ。

そのため会員特典も受けられるということや、母ちゃんが亡くなった時の説明を受けた。

  • 死後、いつでも電話すれば迎えに行くこと
  • 葬儀までの間、実家で安置するか?葬儀屋で安置するか?を真っ先に決めてもらうこと
  • その後の葬儀自体は、迎えに行った後に決め、その決めた内容で費用が決まること

俺はひとまずホッとした。

費用もある程度見通しがわかったし、母ちゃんが亡くなった直後に葬儀屋を探す必要が無いことを知って。

まあ、それもこれも母ちゃんが認知症になる前から葬儀屋に積み立てしてることを俺に話してくれてたおかげだし、そもそもそういった準備をしてくれてたからなんだが(^^ゞ

葬儀屋を出る時、台風の雨風がメチャクチャ強くて、葬儀屋の人が車に戻る俺を心配そうに見送ってくれたのが印象に残っている。

 

9月19日(月)

前日に「好きなものを~」と聞いていたのでプリンと餃子を買って、また施設に行った俺。

俺に配慮してくれて、その場で母ちゃんが食べる所に立ち会わせてくれた。

最初、看護師の方が少しずつあげて、そして俺から母ちゃんに食べさせてあげる。

スプーン4分の1も無く、本当に舌の上ですぐ溶けるくらいな感じなんだけど。

食欲旺盛な母ちゃんw

 

スプーンを近づけると自分から口を開け乗り出してくるw

思わず俺は「そんなにがっつかないでw」とw

 

こんなに食欲あるのに、

こんなに眼力あるのに、

こんなに話も聞いてくれるのに、

こんなに動くのに、、、

むしろ、6月に久々に会ってから一番動いていて、しっかり話も聞いてくれてるのに、、、

 

誤嚥してしまうから口からご飯をあげられず枯れていく、

俺が枯らせていく

 

まだ、この時の俺は”枯れていく”=”死”ということを理解したつもりだったが、まったく理解していなかった・・・

 

9月23日(金)

19日以来行けてなかったが、母ちゃんは量は少ないが口から食べれているとのこと!

とはいえ、あまり時間が無いのは事実なので、この日は俺のLIVE姿を観てもらおうと決めてた。

 

俺のLIVEには何回来たのだろう?

LIVE HOUSEにも来たかな?

目黒のさんま祭りのLIVEや、矢沢永吉さんの前座で出た東京スタジアムには来てくれた母ちゃん。

心なしかリズムに乗ってくれている気がする。

 

9月25日(日)

24日はまた行かず25日にまた行ったら、どんどん目もしっかり開いて表情も豊かになり握手もする。

この3ヶ月間で一番元気でしっかりしていたのでは?

ごはんも相変わらず食べれているだけでなく、こないだ持ってきた餃子も2つ食べてくれたと管理栄養士の人が教えてくれた!

『なんだよ、やはりあの病院クソじゃんか!そして、食べさせようとしてくれるこの施設に本当感謝!』とすごく嬉しい気分になった俺。

 

さらにとても可哀想だけど、メチャクチャ嬉しいことがあった!

看護師の方が俺に嬉しそうに伝えてくれたこと。

それは、

「(母ちゃんが)今朝ハッキリとわかる言葉で話してくれたんですよ!」と。

 

「おはようございます。おなかすきました」

 

看護師の方も全然声聞いてなかったからびっくりしたそうだけど、ちゃんと自分の意志を言葉で伝えられる!

でも、、、

それだけ、本当にお腹すいたんだよね?

ごめんね、ちゃんと食べさせてあげられなくて・・・

食べたいよね?

けれど、今のところ少しだけど口から食べられているから、まだ大丈夫!

 

ケアマネの方も「この調子であれば10月もおみとり(前提の契約)で大丈夫ですか?」と聞いてくる。

9月中には、、、という感じだったので、要は10月もいけますよ!ということw

即座に俺は「もちろんです!」と答えた!

 

9月26日(月)

夜、施設から電話があり「薬も飲めるか試してみる」とのこと。

もう感謝しか無くて、何度もお礼を言った。

というのも、口から食べ物や飲み物を摂れない場合、薬ももちろん飲み込めない。

それを無理しないことは前提だけど「薬も試してみる」ということは、解熱剤も飲めるし、胃薬なんかも飲めるので、ちょっとした病気にも対応できるということ!

嬉しい話なので勤務時間終わってたんじゃないかな?、それなのにケアマネの方がわざわざ電話かけてきてくれた!

 

9月27日(火)

朝、施設から電話があり、容体が急変し酸素飽和濃度が73%で危険で、もうごはんを食べられないだろうとのこと。

そして、救急車を呼ぶか?要は延命措置をするか俺に確認してきた。

 

すでに”おみとり”前提で施設に戻っているので救急車は呼ばないはずなのだが、恐らくケアマネの方は”本当に最後のチャンス”ということで連絡してくれたのだろう。

 

ひとまず電話だけでは判断できないので、すぐにバイクで施設に向かい母ちゃんとゆっくり会ってから判断することに。

その時のケアマネさんがまた素敵で、俺が向かうことを伝えると「気をつけて来てくださいね」と2回も言ってくれた。

1回だけなら社交辞令とも受け取れるが、2回だと『あれ?何で2回言ったんだ?』と感じ、いつも以上に気をつけることができた。

本当に感謝。

 

無事施設に着き、今回はもう車椅子でも移動できない母ちゃんなので、初めて母ちゃんの部屋(静養室:要はおみとり専用)に入った。

 

そして、今考えると母ちゃんは変わり始めていた、、、

思わず涙が出た。

この時に俺は『本当にお別れが近づいたんだ』と実感したから。

 

ただ、ずっといるわけにもいかないので、一旦俺は家に帰ることに。

そして、次の日に親父と兄貴を連れてくることに決めたのだが、そのためには母ちゃんに頑張ってもらわないといけない。

そこで俺は母ちゃんに「明日まで頑張れる?」と聞いたら驚いたことに「頑張れる」と言葉を発してくれた!

それも本当に最後の最後まで、強く、家族のことを大事にし、自分のことは後回しにして、、、

 

驚いた!

6月に再会し、そして約1年ぶりに、いや2021年も途中から会話らしい会話したことが無かったので、本当に久々に言葉できちんと返してくれて会話ができた!

意識もしっかりしてるジャン。

さらに最後に俺が帰ろうとすると「嫌だ」とハッキリ言っていた・・・

 

なのに、なんで・・・

とにかく、後ろ髪を思い切り引かれながら、俺は1回家に帰って心を落ち着けることにした。

 

この時から施設は時間制限を無くし、好きなだけ会っていいと、、、

 

 

 

9月28日(水)

親父、兄貴も一緒に母ちゃんと会う。

前回、施設に文句を言ってた親父。

こっちが弁護士と調整し裁判所から親父の面会許可を得たって言うのに、何も考えていないから腹立ってたが、かといってこの状況で母ちゃんに会わせないわけにいかないから、親父にこの施設がどれだけ母ちゃんのために色々やってくれているか?、2回目の病院では見放されたのだが、この施設ではすごく親切にしてもらって、本来数日なところをこうやって母ちゃんの世話をしてくれていることを説明。

ここまでやってやっと親父は前回とは違い施設に感謝してた。

 

この時までは6月に再会してからの母ちゃんの状態とそこまで変わらなかった気がする。

むしろ、一番母ちゃんの意識がしっかりしている気さえする。

なぜなら反応も今までで一番しっかりしているから。

 

親父と兄貴が母ちゃんの死を感じたのは、恐らくこの時が初めて。

ただ、帰りの車の中では、母ちゃんが入間から日高の温泉まで良く歩いて行った思い出などを話し、雰囲気は悪く無かった。

なぜなら、親父と兄貴は、まだ母ちゃんの死がすぐそこにあるとまでは思ってなかったからだろう。

 

ただ、俺も、まさか、この時が”最後の選択の時”になるとは思わなかった・・・

まだ、俺は”死”ということをしっかり分かっていなかった。

 

10月1日(土)

『無理言ってでも、施設の人に嫌がられても、母ちゃんに口から食べてもらおう。お腹すいているんだから』と3日前の状態と、その前の食欲がある母ちゃんを思い出し俺はプリンを買っていく。

何で俺は2日空けてしまったのだろう?

何で俺は毎日会わなかったのだろう?

横浜と入間とか距離は関係無かったはず、、、

 

この日も親父と兄貴と3人で施設に行く。

母ちゃんの顔を見た瞬間、事態を理解した・・・

 

『もう、戻れない一線を母ちゃんは超えてしまった・・・』

 

さすがに写真や動画は載せないですが、会わなかった2日間で母ちゃんは一気に衰弱が進んでしまい、体もさらにガリガリに痩せ細り、ずっと上を向いたまま、視線を動かすのもままならず口も開けたまま。

ただし、俺たちが来たことは理解し、声をかければしっかり反応して、視線も合わせてくれるし口も動かしてくれた。

無理言って看護師の人に買ってきたモロゾフのプリンを食べさせてもらったのだが、食べるというより舐めるという感じで、それでも3口食べてくれた。

もちろん1口は、スプーンの先にかろうじて乗せた”かけら”だが。

 

この投稿をInstagramで見る

 

DOWN PICKER(@down_picker)がシェアした投稿

 

もう看護師の人が顎を持ち、無理やり口を上下に動かす感じ。

それでも、ほんの少しだけ「ごくん」と飲み込むような感じはあった。

スプーンの先端にほんの少し乗せたプリンを3口だけ・・・

 

これが”最後の晩餐”になった・・・

 

親父が「まさかこのまま何もしないでいるのか?」と俺に聞いてきたから、俺は、治療することで管を繋がれて苦しむより、このまま治療せず穏やかに寝てもらうことを説明した。

帰り、俺たちは無言だった。

 

10月2日(日)

2日連続で3人で母ちゃんに会う。

いつものように施設の入口で抗原検査を受け15分待っていると、看護師が慌てて来て「時間前ですけど、呼吸が止まりそうなので来ちゃってください」と。

 

さらに母ちゃんの状態は悪くなり、兄貴は部屋に入るなり号泣し母ちゃんのベッドの横に膝から崩れ落ちていた。

 

それでも、俺は買ってきた花を母ちゃんの目の前にかざすと、ほんの少しだけど目は反応するし、俺たちの声にもほんの時折だが反応してくれる。

ただ、呼吸は荒い時が多く、仰向けのまま視線も宙を彷徨っていた。

要は餓死なので、意識が朦朧としているみたい。

 

帰り、親父が「思ってたことと違ってた。また家に戻ってこれると思っていた」と悲しんでいた。

 

10月3日(月)

それまでは施設に行っても毎回横浜に帰っていたが、本当に終わりが近づいていることを理解した俺は、この日、喪服なども用意し、また2日分の着替えを持って入間に向かった。

 

そして、3日連続で3人で母ちゃんに会う。

また、昨日より一歩進んでしまった感じで、日一日とガリガリに、それこそ枯れていく。

それでも、ひょっとしたら前夜に呼び出される可能性もあったのに、本当に頑張って俺たちの、いや俺の準備を待ってくれている。

 

もう、母ちゃんはほとんど反応してくれない。

ただ、話によると、触覚と聴覚は最後まで残っているらしい。

そのため、触れることと、話しかけることは大事とのこと。

施設の方によると「他の人に比べると酸素の量がまだ多い。ただ、様子を見ると今日、明日の可能性もかなりある」と。

 

”死待ち”の家族も落ち着かないが、1人で部屋にいる母ちゃんはどんな気持ちなのだろう?

もう、1週間飲み食いしていないので、ふわーっとしているのだろうけれど、それでも意識があるみたいだし。

 

俺は施設の人に「苦しそうだから酸素だけでもあげられないのでしょうか?」と聞いてみた。

できなくはないらしいが、「逆に意識が戻り苦しくなってしまうようです」と。

また、「たしかにこの段階で同じことを仰る方は多いです」と。

すごく丁寧に俺の話も聞きながら説明してくれたので、俺は『やはりそうか・・・』とすごく納得した。

さらに「なぜかはわかりませんが、だいたい4時くらいに亡くなる方が多いです」と教えてくれた。

 

10月4日(火)

↑ここまでが、母ちゃんが亡くなる前に書いた部分。

 

ここからは死後の話を書こうと思ったのだが、やはりこのまま書けないので、あらためて書くことにします。

 

↓続きはこちら

認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと お別れ

 

スポンサーリンク