認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症2年目始まり/2018年、76才)

↑こちらの続きです。

 

母ちゃんが変わってから2年目が始まりました。

もちろん悲しくはあるけど、ただ、この1年間はとてもHAPPYでした!

 

カレー屋から帰って夕方から寝た母ちゃん。

ひとまず親父に任せ俺は横浜に帰る。

 

そして、次の週。

実家に来た俺は親父に「お母さんはどう?」

親父「あれから寝たままなんだよ」

 

この1週間「お前たち親子は電話もしなかったのか?」とお叱りを受けるとは思いますが、『親父もいるし』と俺はまた見て見ぬふりをした。

 

ただ、この週だったかな?

母ちゃんが家で寝たきりで俺が実家にいたことはないから、そうこの日。

また、母ちゃんと俺は車で出かけた。

「どこ行きたい?」と聞いても、もう温泉には行けない。

さすがの俺も分かってる。

 

なぜなら、先週の温泉事件が無かったとしても、圧倒的に違うことがある。

話し方が一気に変わった。

舌足らずで、幼い、子供みたいな話し方に・・・

 

そして歩き方も一気に変わった。

思えば、前の週に左斜めに歩いてしまうことが始まりで、バランス感覚が悪くなってしまったらしい。

歩くスピードもかなり遅くなり、何かにつかまらないと転んでしまいそうな歩き方。

 

それでも出かけることが楽しみで、車の助手席に乗る母ちゃん。

ちなみに助手席のドアを開けて、座って、ドアを閉めるのはゆっくりながらも1人でできる。

 

『さて、どこへ行こうかな?』と考える俺。

ただ、いつもの癖で国道299を秩父方面へ向かう。

少し走ったら母ちゃんが「ダメだよ!」と言い出す。

かなり大きな声で怒っている感じで。

 

「トイレ?」と聞く俺。

まだ、おむつはしていなかった母ちゃん。

 

1年目の終わり頃かな?

たまに漏らしてしまうことはあったけど、トイレに行きたくなるとしっかり意志表示するので、この時もそうかと思って、ひとまずガソリンスタンドに寄る。

ただ、ガソリンスタンドが開いてなかったのかな?

それとも母ちゃんが「違う」と言ったのかな?

 

とにかく「トイレでは無い」と言った気がするので、また走り出した。

するとまた「ダメだよ!」と言うので、俺はとにかくトイレに行ってもらおうと近くの薬局と本屋?がくっついている店に向かった。

 

ただ、ここでもトイレには行かない母ちゃん。

「何がダメなの?」と聞くと「あの子が可哀想だよ!」と言う母ちゃん。

「あの子って誰???」

 

ひとまず、トイレでは無いので、また走り出して一旦ゆっくりできる所ということで、近くにあるホームセンターに向かう。

 

『”あの子”という言うから女かな?』と俺は考えた。

そして母ちゃんと俺の最近の共通の女といえば彼女(正確にはこの時は別れていたので)「あ○○?あ○○のこと?」と聞くと「そう!」と答える。

 

ホームセンターに着き、俺は母ちゃんに「あ○○とはもう別れたから連絡できないんだよ。それに大丈夫だよ」と説明する俺。

あ○○がいい人なので、正確には別れてもお互い連絡は取っていたのだが(^^ゞ

 

それでも「あの子が可哀想だよ!」とさかんに言うので、申し訳ないが俺はあ○○にLINEを送る。

「ごめん、少しでいいから母ちゃんと電話してくれないかな?」

あ○○「今、電話できないんだよ」

俺「そうだよな、ごめん」

 

何度も母ちゃんをなだめつつ、ホームセンターの中を歩く。

歩くスピードも遅くなり、この時は俺と手を繋ぎながら歩き始めてたかな?

 

笑えるのが、認知症になりバランス感覚もおかしくなってて転びやすいのに、絶対に杖を使わない母ちゃんw

「杖使った方がいいよ?」と言っても「いい」と絶対に言うw

認知症になる前から、『自分は若い!』と思ってたのと、あと『杖を使うのは老人だ』と思ってたからw

認知症になってもずっと杖を使わないところはすごかったw

でも、おもむろに俺の方に手を差し出し『手を繋げ』ということはしてくるけどw

 

とにもかくにも、しばらくしてやっと少し落ち着き始めた母ちゃん。

あ○○も家族が大変で、その話を母ちゃんにしてたし、実際に母ちゃんもあ○○と電話で話したり、1回だけど会ったりもしたから、あ○○のことを可哀想って言ったのかな?』と考えつつ、「何か食べに行こう」と入間のイタリアン料理屋に向かう。

 

店内に入りメニューを選んでると、「嫌だ!」だったかな?

またなぜか怒り出す母ちゃん。

「どうしたの?お腹空いているでしょ?そんなに嫌ならごはん食べれないけど店出るよ?」と聞いても「いい!いらない!」と怒ったままの母ちゃん。

 

やむを得ず、そのまま店を出て実家に帰ったのかな?

ただ、どこかコンビニでも寄って、母ちゃんに弁当を買った気もする。

 

要領を得ないまま俺は横浜に帰り、さすがの俺も『このままではいけない』と考え、母ちゃんは嫌がるかも知れないけど、認知症を診てくれる病院を探し翌週の予約を取った。

 

そして、当日。

予約の時間には全然早いけど、朝から出かけることが楽しみな母ちゃんと少しドライブしてから、今は無くなってしまった狭山市駅そばの病院に行く。

兄貴や俺のためにはせっせと何百回も病院に行ってくれた母ちゃん。

ただ、自分のためには絶対に行かなかった病院。

 

病院の椅子にしっかり座ってはいたけど、母ちゃんはさすがに落ち着かなそうな感じだった。

そんな病院に母ちゃんを連れて行くことに俺はショックを受けつつ、受付の人に母ちゃんの状況を伝え、問診票を書き診察を受ける。

 

この時の先生がすごくいい人で、すぐに診断書だったかな?書いてくれて、かつ1時間後だったかな?設備がしっかりしているもう少し大きい近くの病院を紹介してくれた。

紹介されるまま俺たちはその少し大きい病院に行き、母ちゃんはMRIを撮った。

 

撮影後、診察室に呼ばれ説明を聞く俺たち。

この先生がまた本当にいい先生で。

丁寧に細かく状況を説明してくれて、そして今までの状況なども俺たちから聞き取ってくれた。

 

ここで、脳血管性認知症ということが初めて分かった。

「いくつか脳梗塞の跡があり、もう元に戻ることは無いでしょう」と、優しく丁寧に説明してくれた。

 

もちろん、俺は後悔もした。

「認知症は治らない」とも聞いて。

『せめて1年前に来ていたら』とか。

 

ただ、本当に色々な面倒なことから解放され、好きなことを素直に「好き」と言えるようになった母ちゃんに、認知症になる前の状況が良かったのか?という疑問が生まれるのは、俺が俺のことを守りたいだけ、かも・・・。

 

でも「認知症の進行を遅らせることはできる」とのことなので、俺は先生に「できるだけ幸せに死なせてあげたい」と。

すると先生は大きく何度かうなずいてくれた。

本当に本当にありがとうございましたm(_ _)m

 

そして、母ちゃんと実家に帰る途中「大丈夫だった?」と聞くと、「恐かった」と答える母ちゃん。

MRIが恐かったらしい。

そうだよね?

横になって、軽くだけど体が動かないように縛り付けられて、暗い中で音も鳴って・・・。

ごめんね。

 

でも、必要なことだったから。

「でも、大丈夫だったでしょ?」と聞きながら実家に帰っていると「お父さんに会いたい」って。

 

実家に着いて車を降りた母ちゃんに「ほら、お父さんだよ。恐かったんでしょ?」と促し、良く事情が分からん親父は母ちゃんを優しく見守ってた。

 

その後分かったことだが、親子は同じことを考えるも意思疎通をしないからすれ違い、実は親父も同じ時期、別の病院で母ちゃんを診てもらって脳血管性認知症と診断されたらしい。

そして、親父は母ちゃんのためにデイサービスの契約をした。

 

ここでも「今さらデイサービス!?」とお叱りを受けるかも知れませんが、残念ながらうちの家族はそういう家族です。

すいませんm(_ _)m

 

何はともあれ、デイサービスに週2、3回通い始めた母ちゃん。

そして、本格的におむつを使い始めたのもこの頃。

温泉に行けている時は、まだ大丈夫だった気がするが、この頃はパンツに漏らしてしまい、その度に親父や兄貴が洗ってたらしく、親父はおむつを買い始めてた。

俺と出かける時は出かける前にトイレに行ってもらい、途中で母ちゃんが「トイレ」と言ったらすぐコンビニとかに寄ってたので漏らすことはほとんど無かった。

また、杖と同じで明確におむつを嫌がったから。

 

それでも親父や兄貴の努力でだんだんとおむつを履いてもらうようになり、内心母ちゃんがどう思っていたか分からないけれど、年末にはずっとおむつになっていた。

 

話を戻すと、病院で診察を受けたこの時から俺は、

『温泉には行けなくなったけど、ごはんは食べられる!』と、

いや、

『温泉には行けなくなったけど、まだごはんは食べられる!』と、

相変わらず出かけることが好きな母ちゃんをできるだけ連れ回した。

 

もちろん、平日は親父が母ちゃんをドライブに連れて行ってたw

ただ、親父は脳梗塞で左半身が不自由なので、そんなに遠くまで行けないからね。

俺が週末行く時は、母ちゃんとなるべく長時間ドライブし、親父には休んでもらうようにしてた。

 

笑顔も多くなり、話し方は変わったけど、何かを聞けば答えるし、認知症になる前から変わらず、車で走っていると見える看板や景色等に反応する母ちゃん。

レストランや良く行った場所を通り過ぎるたびに「あそこ行った」とか指を指しながら話してくれる母ちゃん。

 

この1年間はどこかに行っても、何か選んでもらっても、何か話しても、いつもニコニコ笑顔で話してくれてた!

 

そして、この頃からかな?

俺が実家に行った時は、俺と同じ部屋にふとんを並べて寝るようになって。

毎回俺が行く時に移動してもらうのも大変だし。

一番最初は俺は照れ臭かったけどね(^^ゞ

この頃はまだ、朝、俺が寝てると弁当やサンドイッチを買って俺に渡してくれたと思う。

朝、俺が寝てると「いつまで寝てるの?行くよ」とかも言ってた気がするw

 

そんな中で、横浜にいた時から母ちゃんが好きなランドマークのクリスマスツリーを見に行った。

クリスマスイブとクリスマスは平日だったので、12/23にね。

 

ランドマークに着き『入口に近い身障者用駐車場は無いかな?』と思ってたら、母ちゃんがもぞもぞしたので俺が「トイレ?」と聞くと「そう」と。

ランドマーク付近はコンビニもあまり無く、ましてや駐車場があるコンビニなどほとんど無いからやむを得ず、ランドマーク沿いの道に路駐し、母ちゃんを身障者用トイレに連れて行く。

さすがにランドマークのトイレがどこにあるかは知ってたから、トイレに近い場所に停めた俺w

で、トイレに一緒に行き、おむつを替え、、、

あ、もちろん、古いおむつはビニール袋に入れて車のトランクに入れて持ち帰ってますよ(^^ゞ

 

落ち着いたところで、あらためて身障者用駐車場を探す。

ところが、当然といえば当然だがランドマークの駐車場は地下しか無く、しかも深い・・・。

ひとまずその駐車場に車を停めて、母ちゃんと手を繋ぎ地上に向かう。

もちろんエレベーターなのだが、クイーンズスクエアに出たんじゃ無かったかな?

かなり大変・・・

 

クリスマスツリーを見るためにランドマークまで、ゆっくりゆっくり歩いていると、おいしそうなケーキの写真が入口に飾られてある喫茶店?レストラン?があったので、母ちゃんに「食べる?」と聞くと「食べる」と。

まあ、「食べる?」と聞くと何でも「食べる!」と答える母ちゃんではあったがw

 

これまた残念なことに店がいっぱいで空いている席が一番奥だったんだけど、手を繋ぎながらゆっくり奥まで進み席に座る。

 

母ちゃんはショートケーキ。

俺はキーマカレーを食べたみたい。

ショートケーキの写真をなぜ俺は撮って無いのだろう・・・

 

もちろん、俺は母ちゃんから目を離さず、少しずつ、一口ずつゆっくり食べてもらう。

周りの人に迷惑がかからないように(^^ゞ

隣の席もすごく近く、さらに混んでて、万一母ちゃんが口から戻してしまったりすると、周りの人や店員にメチャクチャ迷惑かけるから。

この国は、赤ちゃんや幼い子供に対する理解はやっとできてきたようだけど、お年寄りに対する理解は、まだ少ない気がするよね?(^^ゞ

 

何とか問題を起こさず、無事ケーキを食べ終えた母ちゃん。

あらためて店内の狭い通路を手を繋ぎながら歩きつつ、会計を済ます。

そして、クリスマスツリーに向かう。

母ちゃんの歩くスピードだと果てしない距離に思えるが、全然弱音を吐かず歩く母ちゃん。

 

そこで撮ったのがこの写真。

これまた数十年ぶりに、母ちゃんと撮ったツーショットw

 

俺自身恥ずかしかったけど、『もう来れないかも?』と思い、近くの人に思い切って「写真お願いしてもいいですか?」と頼んでみた。

本当にありがとうございます。

 

後日、この写真を見てくれた人が「お母さん、可愛い!」ってw

母ちゃんは「何?」みたいな顔してるんだけどサ。

服も全然きれいなの着てないんだけどサ。

思い出の写真になりましたm(_ _)m

 

この頃、平日は良く親父が母ちゃんとファミレスにごはんを食べに行っていたらしく、ぬいぐるみと指輪を母ちゃんは欲しがったみたい。

 

クリスマスツリーの写真を見てくれた”それなり?に若い女の人”にこの写真を送ったら、「私も持ってる!」とw

70代の母ちゃんとまあ”それなり?に若い女の人”が同じ指輪持ってるということが分かって、俺は本当に嬉しくなったw

ありがとうね、ひょんちゃん。

 

そして、年が明け2019年の1月下旬。

ある日俺は母ちゃんと入間のニトリに行った。

 

ベッドを買うために。

バランス感覚が悪くなって、手を繋いで歩かないと危ない母ちゃんだが、この頃も相変わらず2階にふとんを敷いて寝ていた。

夜、俺が隣にふとんを敷き一緒に寝ていると、途中で母ちゃんが起きトイレに行く。

その度にバランス感覚が無いからあっちいったりこっちいったり転がり、起き上がろうと四苦八苦している。

 

遅ればせながらやっとベッドを買うことにし、これまた母ちゃんに「どれがいい?」と一応聞きながら選ぶ俺。

一応というのは、可動式のベッドを買うことにし、予算の関係もあり、ある程度俺が目星をつけたものの中で選んでもらったから。

 

『本当はこっちの方が若干安いから・・・』と思ってた俺とは裏腹に、実際に座ってもらったりして母ちゃんが「こっちがいい!」と言った予算ギリギリ?のベッドを買ったw

この時に嫌な顔1つせず、母ちゃんの歩くスピードに合わせてくれて、母ちゃんに試しに寝させてくれたメガネのスマートなイケメン店員さん。

本当に本当にありがとうございます!

 

そして2月11日。

狭い急な階段を運送屋さんが一生懸命色々工夫してベッドを2階に運んでくれて(^^ゞ

 

 

本当に本当に母ちゃんが喜んでくれて。

この頃はいつもニコニコしていて感情を出していたとはいえ、こんなに喜んでくれると俺も本当に嬉しい。

育ててくれた恩を全然返し切れていないけど、ほんの少しは親孝行ができたのだろうか?

 

そして、この頃はデイサービスにも順調に通ってて、けっこうおもしろくて楽しい時期♪

「ワオッ!」というのが、この頃の母ちゃんの口癖で、あと覚えてないけどやたら英語使ったんだよなw

「Yes」とか、そんな感じの。

デイサービスのケアマネさんも「よく英語をお使いになるんですよ!」と言ってたw

 

そうそう、デイサービスのケアマネさんが本当に素敵な素晴らしい人で。

きっかけは認知症になる前の母ちゃんの行動。

 

実家はタバコを売っていて、ある一人暮らしのお年寄りだけには母ちゃんがタバコを届けに行ってたらしい。

そんなに体が良くない人らしかったが、ある日その人が辛そうだったのかな?

救急車を呼ぶほどではないが、介護を必要と判断した母ちゃんは、市役所や地域包括支援センターに連絡し、その人を助けたことがあった。

その時に、母ちゃんから連絡を受け、そのお年寄りのお世話をしたケアマネさんがいた。

そのケアマネさんが誰かは聞いてなかったが、俺もこの話は母ちゃんが認知症になる前に聞いていた。

 

そして母ちゃんがデイサービスに通うことになった時、真っ先にそのケアマネさんが「私がお世話させていただきます!」と言ってくれたらしい。

認知症になる前の母ちゃんを知ってくれているケアマネさん。

しかも、本当に優しい方で、時には色々考え過ぎちゃう人だから『色々大変じゃないかな?』とこっちが心配もしちゃう人なんだけど、俺からすれば信頼感抜群の人!

本当に本当にありがとうございました!

 

あと、ドライブ中に俺が「デイサービスは楽しい?」と聞くと「楽しいよ」と答えて。

「あそこは幼稚園だから」とかw

歌を歌ったり、色々する中で幼稚園だと思ったんだと思います。

たまに俺が月曜の朝、母ちゃんがお迎えの車に乗ってデイサービスに向かう時にいると「それじゃ、会社に行ってくる」と言ったり。

朝、定期的に、決まった時間に行くことが昔通ってた”会社”とダブったのだろうw

 

そう、何もわからずデイサービスに行っているのではなく、きちんと意識して行っていた母ちゃん。

このことも勝手に俺たちが判断するのではなく、きちんと本人が”意志を持って行ってる”ということを理解するのがいいと俺は思ってます。

 

デイサービスでは習字や塗り絵等、色々なことをやらせてくれてた。

 

認知症になる前から元々力強い字を書く母ちゃんだったが、バランスこそあれだが、メチャクチャ自由に力強く書いているw

特に名前がw

 

そして、この頃「ワンちゃん飼いたい!」と「入れ歯作るんだ!」を母ちゃんが盛んに言ってた。

『せめても』と俺は思い、母ちゃんとペットショップにワンちゃんを見に行く。

横田基地近くのとても大きなショッピングセンターは、ワンちゃんもOKな店なので、ペットショップに行く前から店内で多くのワンちゃんに会える♪

「ほら、ワンちゃんだよ」と母ちゃんに教えると「かあい~♪」と都度声をあげる母ちゃん。

 

ここは、犬、猫が常時それぞれ10匹程度いるので、いつ行っても楽しい。

本当はワンちゃんを家族として一緒に帰れれば良かったのだが。

そして、俺は「飼う」と言ったことは無かったはずなんだが、母ちゃんに「飼いたい?」と聞いたことはある。

それを勘違いしてしまったのか母ちゃんは、この1ヶ月間くらい「ワンちゃんが今度来るんだ!」と実家にいる時もメチャクチャニコニコしながら話してて。

楽しみにしていて、俺がいない時も盛んに言ってたらしい。

 

かなり本気で俺も考えたけど、残念ながらワンちゃんは踏ん切りがつかず飼わなかった。

これだけは『やっぱり飼った方が良かったかな?』と大きく後悔している。

とはいえ、命あるものだからね。

でも、本当に飼った方が良かった気がする。

俺自身も大好きだし、お年寄りだけじゃなく、家族の雰囲気を和やかにするだろうし、認知症の進行を遅らせるかも知れなかったし。

でも・・・

 

そして、入れ歯は無事作れた。

なぜか母ちゃんはすごく楽しみにしていて。

後日譚で書くつもりだが、母ちゃんは恐らく20代で総入れ歯だったと思う。

少なくとも俺が生まれた時は総入れ歯だった。

数本は残ってはいたけど、育った環境のせいでね。

だから喜んだのかも知れないけど。

 

認知症になった時は、もう2本くらいしか残って無かった気がする。

その理由も後日譚で書こうと思う。

 

入れ歯は、歯医者が実家に来て型を取って作った。

6月くらいだったかな?

3月くらいからずっと楽しみにしていて、俺が「何で?」と聞くと「だって、ピンクの入れ歯だもん」と言う。

「ピンク!?」と俺は驚くと「そう、ピンク♪」と、これまたニコニコ笑顔で話してくれる。

認知症になって、好きなものをハッキリ言うようになった母ちゃんの好みを俺は初めて知ることになる。

ピンクや赤が本当に好きなんだと実感するも『ピンクの歯は気持ち悪いな?』と思った俺w

 

たとえば、トイレのブルーレットとかも母ちゃんに選んでもらってたんだけど、必ず赤を選ぶ。

タオルもピンクや赤のものを選ぶし。

うちは、親父、兄貴、俺と男家族で、ピンクや赤を使うことは無かったから母ちゃんは可哀想だったね(^^ゞ

 

春には母ちゃんが大好きな桜を見に飯能に行ったり、

 

秩父の奥の皆野町の公園まで行き桜を見て。

 

山頂にあるこの公園は駐車場からけっこうな坂を登るのだが、手を繋ぎながら色々な桜を見た。

ただ、降りる時は「恐い」と言いながら(^^ゞ

30才過ぎてスキーを始めた母ちゃんだったのだが、その時も同じような感じだったのを覚えている。

スキーの時はさすがに手を繋がなかったが、俺はずっと母ちゃんが無事滑っていくのを見守ってから滑り始めたのを思い出した。

 

そうそう、この公園に行く途中、母ちゃんがおもしろがったことがあった。

車で走っていると、俺たちが知らない花があったんだよな。

で、俺が「○×※▲」と、覚えてないけど真面目に何か答えたが間違っていた気がする。

そうしたら母ちゃんが「TOMOが誰かに聞かれたら、そうやって答えるんだよw」と。

これだけだと何か分からないし、俺も覚えていないんだけど、間違った答えを俺が誰かに言って失敗する姿を想像しておもしろがってひたすら笑ってたw

認知症になる前の母ちゃんならあり得ないことだが、この時も『自由になれたんだな』と思った。

 

この日の帰りは正丸峠にある店で母ちゃんはそばを食べた。

認知症になる前は歯が悪いこともあってうどんばかり食べてたが、認知症になってからはけっこうそばを食べた母ちゃん。

 

この時も目一杯そばをつゆにつけて口いっぱいに頬張ろうとするので、俺は目を離さなかったのだが、母ちゃんは調子いいとまあまあ食べられたりするので少し油断してた。

頬張ってむせて口から出しちゃったので、いつものように俺が世話していると、隣に座ってた女性の人が「大丈夫ですか?」と手を貸そうとしてくれた。

俺は「ありがとうございます。大丈夫です」と答えるも『また、嫌な想いさせちゃったかな?』と考えてしまった。

 

そう、認知症の人と食事に行くと、周りの人を不快な思いにさせてしまうことが多い気がする。

たとえ食事じゃなくても、ただ歩くのが遅いだけでイライラさせるだろうし。

だから、行く所が本当に限られてしまうんだよな。

 

でも、本当に思う。

「いいじゃないか!認知症でも好きな所に行って!好きなもの見て!楽しんだって!」って。

俺たちに関わらなくていいから、嫌な目で見ないでくれ!」って。

 

ディズニーランドだって、都内の最新のスポットだって、きれいなレストランだって、認知症が行ってもいいじゃないか!

それこそ認知症の人こそ、そういった刺激が必要なんだよ!って。

 

だから、外で食べられる牧場とかも行った。

室内より開放的だし、人の目を少しは気にしなくて済むから。

 

本来理解してくれそうな友達の店でさえ、俺は気を使わず行かなかった。

後日、行かなくて正解とわかったけどw

ただ、CABANAのAKIさんは迎え入れてくれた気がするけどw

 

3月のお彼岸には月島にお墓参りに行った。

母ちゃんは月島で育ったので、俺も何度か行ったことあるのだが肝心の名前(姓)を忘れてしまって。

母ちゃんに「名前何だっけ?」と聞いたら「○○トウだよ」と!

おお!すげ~っ、覚えていた!

おかげで無事お墓を見つけることができた!

ここは十返舎一九のお墓もあるお寺なのだが、お寺の中に半地下?と1階にお墓があり、1階には建物内に所狭しとお墓が並んでいるところ。

よく母ちゃんが「お墓のマンション」と言っていたが、都会だからこそのお墓です。

 

この頃の母ちゃんは本当に元気で、いつでもニコニコしていて興味あるものはすぐ手に取ってたw

ふざけて?横浜の家にあったサングラスをかけた母ちゃんw

 

本当に好きなことを「好き」と素直に言えるようになって、今まで家族のために我慢していた分、俺はどんどん好きなことをやって欲しいと思っていた。

親父が買ってあげてたらしいけど、おかげでぬいぐるみもいっぱいになったw

 

そして、この年、日本は”平成”から”令和”に年号が変わった。

母ちゃんに「年号何だと思う?」と聞いたことがあったが、たしか何か答えた気がする。

年号が変わることも分かっていたし(ふりだったのかな?)、でも、けっこう分かっていたと思う。

 

2019年6月29日

母ちゃんが通っているデイサービスの施設に俺が迎えに行った。

ちょうどみんな食堂?みたいなところで集まってて。

母ちゃんも椅子に座ってたんだけど、俺が迎えに行くと振り返ってニコニコって笑って。

いつもはみんなと一緒に施設の車に乗って帰るのだが、この日は自分だけ特別に俺と一緒に先に帰るので、ある種得意そうな顔をしていたのかも?w

振り返った母ちゃんの顔は忘れられない光景♪

 

こうやって、母ちゃんは温泉には行けなくなったけど、なんとか外でごはんを食べられてて、まだ色々な所に行けていた2年目。

夏には77才になり、喜寿となった母ちゃん。

デイサービスでもお祝いをしてもらって。

 

そして、2年目が終わる時、横浜にいた時の母ちゃんの友達に俺は母ちゃんが認知症になったことを伝えた。

まあ、俺の同級生のお母さんでもあるのだけど(^^ゞ

すごく母ちゃんを慕ってくれていた人で、俺は『逆に悲しくなってしまうかも?』と話してなかったのだが、機会があり話してみたらその人は手紙を母ちゃんに書いてくれて。

 

その手紙を読んだ母ちゃんの反応が、、、

 

”プレゼント”だけ求めてたのか?w、最初は手紙をスルーしてしまうんだが(^^ゞ、プレゼントであるパジャマを発見して、その後俺が「手紙は?」と聞いて手紙を読み始めて。

俺は内容をもちろん未だに読んでないのだけれど、その時に「なんだって?」と聞いたら、母ちゃんは「○○さんも苦労したんだね~」と。

 

小さい頃から本が大好きで、いや、逆に本くらいしか楽しみが無かった母ちゃん。

認知症になっても、きちんと文を理解している。

もちろん、この手紙は大切に持っています。

おばさん、本当に母ちゃんのためにありがとうございますm(_ _)m

 

そうそう、メガネをかけているけど、これは伊達メガネですw

指輪と同じく、この頃母ちゃんはメガネが好きで、またファミレスなんだろうけど、安い伊達メガネをいつも買ってもらってたらしいw

あと、帽子も好きで、ずっとかぶっていたw

たしか、デイサービスの職員の方だったかな?

夏用の涼しげな帽子を母ちゃんにプレゼントしてくれたらしくて。

超お気に入りで、たまに忘れて出かけようとすると「帽子がない!」と騒いでw

 

この頃かな?認知症になる前から母ちゃんが好きだった喜多院にも行った。

この時期だとすいているしね♪

 

ただ、俺もだんだん行く所のネタが尽きてきて・・・

前述したように、周りの目を気にして行ける所も限られていたし。

かといって、春や秋であれば外も大丈夫だけど、外は外で長い間歩いたりもできないし(^^ゞ

 

そして、母ちゃんの認知症3年目が始まった・・・

 

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認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症3年目/2019~2020年、77~78才)

 

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