認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症2年目/2018~2019年、76~77才)
↑こちらの続きです。
3年目もやはり”9月”がポイントだった。
2年目は英語を使ったり、いつもニコニコしていた母ちゃんが、怒ることが多くなり、笑顔が無くなった・・・
「どうしたの?」「何が嫌なの?」と聞いても、「嫌だ」だけとか、不機嫌な顔をするだけとなり、自分から話すことも無くなった。
そのため今まで以上に俺から質問するようにしたのだが、なかなかね(^^ゞ
そんな中でもきちんとデイサービスに通い、習字は素晴らしかったのではなかろうか?w
力強い!
『本当に認知症?』という字に見えるのは親バカならぬ、子バカ?w
この秋風は後々もポイントになる作品ですね♪
ただ、認知症は確実に進んでいることは分かったし、自分からトイレに行くことは無くなった気がする。
なので、『臭いな?』と思ったらおむつを交換したり、臭くなくても、おむつをチェックしたり。
そんな中でも俺は「トイレ行きたくない?」「トイレ行っとこうか?」と話しかけ、おむつに頼らず、できるだけ自分からトイレに行ってもらうよう伝えていた。
残念ながら、母ちゃんが自分からトイレに行くことはもう無かったが、トイレに行けば自分からおむつを脱ぎ、出そうとはしてくれていた。
あと、夜中に起きて困るのもこの頃が一番だったかな?
2年目も少しあったが、3年目は本当にひどかった。
短いと30分寝たら起きるし、長くても1時間とか2時間で起きてしまうことが多かったかな。
で、母ちゃんはとにかく出かけるのが好きだからか、すぐに1階に降りちゃうんだよな。
さすがにこの頃は玄関を開けて外に行くことは無くなったけど、1階に降りて電気もつけず暗い中でも椅子に座ってた。
何を考えていたのかわからないけど、満足そうに座ってた母ちゃんw
なので、「もういい?寝よ?」と促して2階に戻ってもらい、ベッドに寝てもらうということが一晩の間に3、4回はあった。
その度に急な階段を1段1段ゆっくりだけど、しっかり昇っていく母ちゃんは、恐らく世界で一番足の筋肉があったのではなかろうか?w
そして、俺も睡眠不足になるわなw
親父もこういったことを病院に相談してて、睡眠薬を母ちゃんに飲ませていたらしい。
だから、母ちゃんが早めに寝てたということもあるけど、それにしても深夜から早朝に何度も起きたのは参った(^^ゞ
で、親父も6時には起きるので、そこから2、3時間俺は寝るのだが、母ちゃんが俺を起こしに来るw
「行こ」とw
要は『車運転しろ』ってw
で、俺もその度に「まだ8時だから、お店開いてないから9時に出よう」と伝えると、仕方なく椅子に座りぬり絵を始めたり、1階に降りたりw
そして、3年目はもう外で食事はほぼできなかったかな?
正確には、できるのだが周りの目が気になる・・・
母ちゃんが食べてる時に俺が「アムアムアムってゆっくり噛んで。そう、そうしたらゴックンて飲み込んで」と。
2年目くらいからそうだったが、この頃はこう言ってもなかなかやめてくれず、結局飲み込めなくて口から出しちゃうことが多くなっていた。
母ちゃん自身も自分のペースで食べられないのを嫌がって「ん゛~っ!」と怒ることもあった。
外食をしにくくなったから、横浜の家にしか行けなくなったが、そのおかげで俺は母ちゃんをお風呂に入れてあげられるようになった。
もちろん、デイサービスでも入れてもらえるが、温泉(風呂)好きな母ちゃんは、本当に風呂が好きだった。
まさか俺が母ちゃんを風呂に入れることになるとは思ってなかった。
以前は親がこういうことになっても『やらないだろうし、やれないだろう』とも思ってたのだが、やれるもんだねw
頭を洗ってあげて、背中や腕、足、おしりを洗ってあげて。
ただ、”自分で動くことを続けて”という意味もあり、体の前の部分は「自分で洗って」と言い、母ちゃん自身に洗ってもらってた。
そして、流してあげて、湯船に浸かってもらう。
すると、表情が乏しくなってきた母ちゃんが湯船につかる時は「気持ちいい~」と、すごく気持ち良く声をあげる。
俺は「ゆっくり入ってていいよ」と言い、母ちゃんのごはんの用意をする。
と言っても、レンチンだったりするけど(^^ゞ
この時期からかな?
スーパーでやっと介護食がある程度種類が多く売られ始めて。
未だにコンビニに置いてないのが腹立たしいけど!
不思議なのは、この頃はまだ母ちゃんが大好きな餃子や寿司とかは食べられていた。
その他の食べ物は、やはり介護食の方が食べやすかったけど。
好きなものはきちんと飲み込めるのは不思議なんだが、介護あるあるらしいですね?w
おかげで、長年住んでいた横浜の家に母ちゃんは何回も帰れることになったのだが。
夏は熱中症が恐いからスポーツドリンクを用意していたのだが、いつも一気に飲み干してしまう母ちゃんw
一口は少ないのだが、連続で飲んでしまうので、「一口ずつでいいんだよ。少しずつ小分けに飲むといいんだって」と言ってたんだけどね(^^ゞ
横浜の家に帰る度に玄関から廊下を進み、好きなお風呂や他の部屋に向かうことなく、真っ先に仏壇に向かい自分の両親のために線香をあげる母ちゃん。
やはり40年住んだ家は覚えているし、まず始めに線香をあげるのはさすが。
ちなみにマンションのエレベーターのボタンは、必ず母ちゃんに押させてました。
”自ら動くこと”を俺はずっと意識していたから。
『認知症だから』とは俺は絶対に考えなかった。
『新しい母ちゃん』
『本当の母ちゃん』
だから、俺もそんな母ちゃんに合わせて動いた。
- 人が年を取ること
- 人が認知症になること
- 人が死ぬこと
もちろん、母ちゃん自身はそんなつもり無いかも知れないけど、未だにすごく丁寧に時間をかけて俺に”教えてくれている”
『認知症になったら、こっちが面倒をみてあげなくちゃ』という考えを俺は好きではない。
もちろん、親父や兄貴みたいに毎日母ちゃんに接していないし、週に1回だけだからこんなのんきなことを言ってられるのでしょうが、対等な人ということで接するのが当たり前だけど大切なことだと思う。
そして、やはりこの頃だったかな?
俺が横浜まで行く時間が無い時に、近場の入間の不二家に行った。
車で走っていると、不二家には反応することが多かったんだよね。
不二家の前を通ると「ああ~」と言いながら不二家の看板を指さす母ちゃん。
そんなこともあって、この日は久々に店に行こうと不二家に行き、いつものように母ちゃんにメニューを選んでもらう。
ショートケーキを選んだ母ちゃん。
俺はハンバーグを頼んだかな?
俺が子供の頃、戸塚駅前の2階にあった不二家に良く行っていたからw
たしかまだ食べ物が出てくるのを待っていた時だと思うけど、突然「ハッピーバースデートゥーユー♪」と店員さんがケーキを持って現れて。
どうやら、不二家に家族で来ていた子供さんが誕生日だったらしい。
俺は「ほら、お母さん、誕生日らしいよ」と話すと、表情の変化が無かった母ちゃんも「ああ!」と笑顔になり、一緒に手拍子をした!
誕生日の日に居合わせてくれてありがとうございましたm(_ _)m
そして、素敵な不二家さんもありがとうございました。
久々に母ちゃんの笑顔を見れました。
そして、2020年。
”コロナ”が始まりました。
できるだけ毎週実家に行っていた俺も、2週間に1回になった。
コロナのまん延当初は1ヶ月行かなかったかも?
幸いにも俺は在宅で仕事できるので、感染する可能性は低かったがメチャクチャ意識した。
母ちゃんを殺したくないから
『週1だけど、親父とは違う刺激を与えられる俺が行かなくなったら、母ちゃんの認知症が進んでしまうのでは?』という不安もあった。
ある種、それは当たっていたのかも?
2020年2月頃からじゃないかな?
今まではたまに靴履いたまま家に上がってしまう母ちゃんだったが、この頃から当然のように靴を履いて2階に上がり、ベッドで寝るようになってしまった。
親父と兄貴が「靴を脱いで」と言っても、いうことをきかないらしい。
まあ、2人がどこまでちゃんと説明したかも怪しいし、母ちゃんが2人のことをどう思っていたかもあれだけどw
俺のことをすごいという言うつもりはまったく無いが、「靴のまま上がったら、家が汚くなっちゃうでしょ?バイ菌もくっついちゃうし。だから、靴を脱いで」と俺は言いながら母ちゃんの靴を脱がす。
すると、きちんと言うことを聞いてくれる母ちゃん。
ただ、前にも書いた通り、夜中は1階に降りてしまう。
実家はタバコを売っていて、元々コンビニでは無かったが昭和のコンビニともいうべき”○○商店”という造りの家。
そのため、母ちゃんが1階の椅子に座る場所は、家の中なのだが靴を履くスペースです。
だから、夜中に1階に行って2階に戻ってくる度に靴を履いてきてしまうw
俺も毎回1階に付きそうわけにもいかないから、2階に戻ってきた母ちゃんの足を見ては「ダメでしょ、靴は脱がなきゃ」と言ってたw
隔週で、そんなことを繰り返していた中、夏に喜ばしいことがあった。
俺はコロナということもあり暖かい時期はバイクで実家に行った。
その度に「ああ~」とバイクを指さしたりしていた母ちゃん。
2020年7月12日
その日も時間が無くて横浜に行かなかったのかな?
狭山市のイオンに行った気がする。
そこでクリームソーダを食べてw
実家に帰った時に俺のバイクに反応したのだが、この日はアクションが大きかったので俺は母ちゃんに「乗る?」と聞いた。
すると、、、
別の日もドライブしているとパトカーを見て「かっこいい」とか言ってたので、本当に乗り物が好きなんだろう。
とにかくこの日は、認知症になる前にずっと乗っていたバイクに乗りたくて仕方なかったみたい。
センタースタンドではなく、サイドスタンドで斜めだったし、ハンドルも固定してなかったから恐かったらしく、最初躊躇しているけど、結局バイクにまたがりドヤ顔をする母ちゃんw
またがった瞬間、満足そうな顔をしている気もするが、動かないからか不満そうな顔にも見えるかな?
でも、”自分の意志”でバイクに乗りたがり、実際バイクに乗った!
自分のやりたいことを素直に表現できるようになり、
”認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと”
を体現した最高の時だったと思う!
この頃は自分が着る服はボタンであれ、チャックであれ、とにかくきちんと全部閉めるのがブームだったみたいw
なかなか思うようにいかず、苦労してボタンをはめるんだけど絶対にやめなくて。
ボタンの位置が1つずつずれてしまう時があるから、そういう時は俺が最初の1つだけはめてあげて、あとは母ちゃん自身に任す。
全部やらないことを俺は意識し、できるだけ母ちゃん自身に考え、動いてもらうようにしていた。
あと、バイクに乗ってた時のウインドブレーカーがお気に入りで、夏でも着てた。
帽子とメガネもお気に入りで、でかける時はかならず身に付けてた。
「暑いから着なくていいんじゃない?」と言って、シャツだけになってもらおうとしたら、すごく嫌がるので熱中症にならないか心配しながらドライブした。
ただ、間違いなく認知症は進んでたのだろう。
そんな中でも、その頃断捨離をしていた俺は、うちにあった人形を処分しようとしていた。
いつものように週末に横浜の家に一緒に来た母ちゃんに「覚えてる?」と見せたのがこの人形。
母ちゃんは見た瞬間「かあいい~」と。
この頃は表情としては笑顔は無かったが、言葉はまだ表情があった。
そして、認知症3年目が終わるのだが、この年は初めてここ数年ターニングポイントだった9月も、そこまで変化が無かったのかも・・・
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認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症4年目/2020~2021年、78~79才)
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