はじめに

1853年のペリー来航を期に、日本中の人々が混乱に巻き込まれていく。
その中でも、幕末期に日本改革の中心となったのは、民衆でもなく封建諸侯でもなく、
中・下流武士であった。
西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・高杉晋作・勝海舟といった者たちが、諸外国の代表と会談し、
封建諸侯や朝廷関係者を説得したりしながら、明治維新を成功に導くのである。
ところが、これらの者たちとは、全く別の方向から明治維新に参加した者が坂本竜馬である。

彼は既存の体制や、思想だけに従順に従うことなく、自らの選択によって
あらゆる方向性を見出だそうとした。
その結果独自の路線をたどることになり、幕末期における志士たちの中で
個性的であり得たのである。
薩長同盟・船中八策・大政奉還と政治的な行動もとりながら、海援隊という自らの勢力を作り上げ、
商業的な活動にも足を踏み入れている。
このような一連の活動は、坂本竜馬が’自由人’と表現される原因にもなっている。
彼の活動は幕末期において、どれだけ個性的であったのだろうか。

土佐藩の下層階級に生まれた彼は、藩政に携わる機会など全くなかった。
また坂本家の本家は商人であったことから、商業的な見解を彼に与えることになる。
以上の影響から彼は、封建的思考から解放され、自由な立場に立つのである。
自己の打ち立てた目標に向かって早くから藩を脱し、現実の状況を見つめ、
利用できるものなら何でも利用しようとする態度を彼にとらせる。
攘夷主義全盛の中、開国派の勝海舟の弟子になったり、出身藩ではない
薩摩藩の保護を受けたりする。
越前藩から資金援助を受け海軍の修行をし、一方長州藩の支藩である長府藩から、
ボディーガードをつけてもらい政治活動を進める。

彼の考え方の中には体面や体裁を繕うとする意識はなく、片っ端から利用できるものを使っている。
その背景には薩摩藩や長州藩側も、竜馬を利用することによる利益があったのである。
たとえば薩摩藩が亀山社中という彼の活動基盤を支援することにより、
幕府から薩長両藩の提携を気づかれないようにすることが出来たのである。
土佐藩にしても倒幕活動に出遅れていたのを、
竜馬を仲介することにより挽回することが出来たのである。

竜馬はこれらの周囲の思惑をも利用して、自己の目的を達成しようとしたのである。
当時封建体制の中で、これほどの活動を見せたものはかなり少数であった。
吉田松陰でさえも自らの理想におぼれ、結局獄死という最後を迎えている。

竜馬がなぜこれほどまでに個性的でありえたのか、彼の手紙や他人の文章から探っていきたい。
そのことにより彼の行動を捉え、自己確立の様子を検討したい。
また最近坂本竜馬に対する評価が変わってきている。
そのことにも触れていきたい。

第1章 自己の形成
第1節 自己の土台構築

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