おわりに

坂本竜馬を’自由人’と評価する人がよくいる。
「主観的には、自らが士としての政治的任務をもたねばならぬとの自覚と意欲をもちながら、
客観的にはその任務を果す政治的場をもちえない、
そうした価値意識と政治的場とのアンヴィバランスを孕むダイナミックな中間層ー下級武士・
郷士・豪農商層が、幕末・維新の政治状況下で活性化したことは、
多くの研究が報告している。
坂本竜馬もかかるダイナミックな中間層に属している」
(井上勲「大政奉還運動の形成過程」『史学雑誌』81編11号1555頁)
という研究がある。
彼は中間層という立場により、数々の個性的な活動をしたのである。
そのような彼は本当に’自由人’であったのだろうか。

確かに彼は江戸・京都・神戸・下関・長崎・鹿児島と、日本中を股に掛け活動をしている。
脱藩浪士ゆえに、藩を気にせず行動できたのである。
また面会した人物も様々である。
倒幕派はもちろん佐幕派にも会っているのである。
実際海援隊士の中に、酔うと幕府擁護論を展開する小谷耕蔵という者がいた。
竜馬は他の隊士がこれを斬ろうとするのを、
「そういう立場の者がいても、いいではないか。
そういう人間を同化できないようでは、仕方がないし、
むしろ異論の人間がいた方が、活気があってよい」
(池田諭『坂本竜馬』157頁)と言っている。

1867年には「長崎ニて、会津の家老神保修理に面会。
会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり。
色々おかしき談ありしが、変りたる事なし」
(2月16日付三吉慎蔵宛龍馬書簡『坂本竜馬日記』下巻17頁)となっている。
佐幕派の中心勢力である会津藩の家老とも、会談しているのである。

彼は活動初期から、このような一見曖昧とも思える行動は多かった。
江戸修行を終えて河田のもとを訪れたのが、その最初である。
次に幕臣である勝海舟のもとを訪れるのである。
後藤象二郎と会談したのも、周囲にはなかなか理解されなかったのである。
このような行動がなぜ曖昧か。
河田や勝に竜馬が面会したとき、周囲はどのような状況であったか。

土佐藩においては瑞山が、神州を守らんとして夷狄を討つべしと、
土佐勤王党を設立させている。
そして柳川左門と称し、公家の用人となるのである。
彼は江戸に下り、幕府に攘夷を命じさせるのである。
長州藩では1862年、高杉がイギリス公使館を襲撃している。
翌年には、馬関海峡を通る外国船を砲撃するのである。
薩摩藩においても1862年に生麦事件を起こし、イギリス人を殺害している。

竜馬の周囲の状況は、攘夷主義全盛だったのである。
彼はその中にありながら、土佐勤王党に加わったり、
開国派との関係を深めたりするのである。
攘夷主義とは、日本は天皇のもと万民が暮らしている。
その日本は神聖であり、汚してはならないという思想から来ている。
当時一般的な教育を受けた者は、ほとんど攘夷主義であった。
日米修好通商条約を成立させた井伊直弼さえ、本来は開国に反対であったという。

諸侯などの上層階級は、それでも日本の現時点での状態を理解していたのである。
結果的に’開国やむを得ず’と判断する。
しかし下層階級は日本全体、ひいては藩全体から対外政策を考えることすらおぼつかない。
彼らは個人活動による攘夷主義を実行するのである。
’自分の剣術の腕さえ磨けば、異人なんかに日本の土を踏ませない’となるのである。

もう一つの階級として、知識階級がある。
彼らは早くから、日本の攘夷断行が不可能だという事を理解する。
そして外国の文化を積極的に取り入れ、日本の国力を増強させようとする。
河田や勝はこの考え方のもとにいたのである。
河田が竜馬に語った内容とは次のようである。
「愚存ハ攘夷ハトテモ行ハルベカラス。
仮令開港トナリテモ、攘夷ノ備ナカルヘカラス」
(『坂本竜馬日記』上巻28頁)
このような知識をもった者はごく少数であった。

竜馬は知識階級(開国派)のもとへ行き、話を聞いて教育されるのである。
正式な学問を受けていない彼は、何に対しても偏見が無く受け入れられたのである。
だから攘夷主義者の考えも理解し、開国主義者の考えも理解できたのである。
両者の考えを自己において咀嚼し、活動へと結びつけるのである。

攘夷主義者の久坂から脱藩という考えを示され、
同じく攘夷主義者の沢村と脱藩する。
しかし開国主義者の河田から聞いた薩摩藩の技術力を一目見ようとし、
沢村等と別れ九州遊歴となるのである。
そのまま攘夷主義者の活動には加わらずに、開国主義者の勝のもとを訪れるのである。
攘夷主義者と開国主義者の間を行ったり来たりする彼は曖昧に見えるのである。

勝のもとを訪れた以降の竜馬は、人のふんどしで相撲を取ってばかりいたのである。
神戸海軍操練所の閉鎖の後、薩摩藩に身を寄せる。
土佐藩の藩論が変わってきたところで、これを利用し海援隊を組織する。
ついに海援隊を組織したところで、彼は暗殺されるのである。
自己の勢力を持つためには、利用できるものは利用しとこうという姿勢が見られる。

薩長同盟にしても大政奉還にしても、竜馬にしてみれば、
直接実行できる位置にはいなかった。
しかしこのような事項に間接的に加わることにより、諸藩に自己の地位を確立させるのである。
薩長同盟の結果、亀山社中が設立される。
大政奉還の結果、竜馬自身も政治活動に直接加われる体制を作り上げようとしたのである。

よく竜馬は維新後の政権には、興味がなかったと言われている。しかし

一、 参議   若干人
公卿、諸侯、大夫、士庶人ヲ以テ、之ニ充ツ。
大政ニ参与シ、兼テ諸官ノ次官ヲ分掌ス。
(暗ニ小松、西郷、大久保、木戸、後藤、坂本、三岡八郎、横井、
長岡良之助等ヲ以テ之ニ擬ス)
(『坂本竜馬日記』下巻169-170頁)

とあるように、竜馬の名がある。
これは尾崎三良が、竜馬の意を受けて作成した「新官制擬定書」にあるものである。
彼は自らも政権に加わることを、意図していたのである。

竜馬の目的とはいったい何だったのだろうか。
1867年11月15日に暗殺されてしまったので、不明瞭なことが多い。
しかし彼の行動を追うと、もし維新後まで生きていたならば、
政界と財界の橋渡し的存在となったのではないだろうか。
海援隊の活動をしながらも、政治活動をしていたという彼の行動はその事を物語っている。

だが本当に竜馬は、政権に加わることが目的であったのだろうか。
彼は海援隊による活動をしていたのである。
そこでは自己の勢力による商業活動などが行われていた。
しかし海援隊には限界があった。
薩摩藩や土佐藩に財政面での援助をして貰っていることにより、
結局藩の思惑に左右されてしまうのである。
竜馬自身の行動も、自己の思うままにはいかないのである。
その藩を崩壊させ、新体制のもとで海援隊の活動を展開したかったのではないだろうか。
亀山社中の設立の時にも、薩長同盟という政治活動を利用している。
海援隊の時も、土佐藩は薩長倒幕派の動きに乗り遅れまいとしていた。
竜馬は土佐藩と薩長側との仲介役をしたのである。

竜馬の政治活動の背景には、いつも自己の勢力の充実が見られる。
それは薩長土藩が竜馬を利用しようとしたのを、反対に彼も利用したといえる。
彼は大政奉還を行うことにより、自己の勢力のさらなる飛躍を期待したのである。

彼が諸藩を利用できたのは、偏見を持たずに人と接し、
自らが自然の流れに逆らわないことにより実現できた。
理想に一気に近づこうとするのではなく、
現状をよく理解し機が熟すのを待つ。
「天下に事をなすものハねぶともよくよくはれずてハ、
はりヘハうみをつけもふさず候」
(6月28日付乙女宛龍馬書簡『坂本竜馬日記』上巻108頁)
と竜馬は書いている。

彼の人生観はすべて’自然に’が中心であったのである。
それゆえ暴挙と思える’無理な’ことには加わらずに、自分は修行を重ねるのである。

扨も扨も人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、
うんのわるいものハふろよりいでんとして、
きんたまをうめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハ、うんがつよくなにほど死ぬるバヘでてもしなれず、
じぶんでじのふと思ふても又いきねバならん事ニなり
(3月20日付乙女宛龍馬書簡『坂本竜馬関係文書』1巻71頁)

世の中の事ハ月と雲、実ニどフなるものやらしらず、おかしきものなり。
(中略)人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなし
(12月4日付乙女宛龍馬書簡『坂本竜馬日記』上巻263頁)

私事かの浮木の亀と申ハ何やらはなのさきにまいさがりて、
日のかげお見る事ができぬげな。
此頃、みよふな岩に行、かなぐり上りしが、
ふと四方を見渡たして思ふニ、
扨々世の中と云ものハかきがら計である。
人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい。
おかしおかし。めで度、かしこ
(4月上旬乙女宛龍馬書簡『坂本竜馬全集』199頁)

これらの手紙に竜馬の考え方が、よく反映されている。
人の死ぬのは「うんがわるい」かそうでないかだというのである。
だから、「短気してめつたニ死ぬもので」はないと考えている。
そしてふと「みよふな岩に行」き、一歩引いた状態から冷静に現実を見ている。
それが「人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい」
となるのである。
竜馬の客観的思考は、彼独特のものであった。
世の中や自らを客観的に見ることにより、余計なことに惑わされず、
自己の目的のみを追求できたのである。

竜馬はのらりくらりと尊攘派に接近したり、離れてみたりする。
その間に彼は自己の勢力作りを進める。
幕臣-勝、薩摩-西郷、土佐-後藤と、
彼は後援者を次々に変えているのである。
彼の真骨頂はまさに、このような行動において発揮されるのである。

竜馬は後援者である勝や後藤たちを利用し、自己の目的を達成させる。
もちろんその間には、彼らからの要求を迫られる。
彼はその要求を満たしながら、
時には自らの要求と一致させながら目的を達成するのである。
薩長同盟や長州藩の武器購入斡旋などは、後援者の要求を満たしたものである。
船中八策や大政奉還などは、後援者の要求と自らの要求が一致したものである。

反対に考えるならば、竜馬と後援者の要求が一致しなくなったとき、
竜馬は邪魔な存在となるのである。
大政奉還運動時の彼は、薩長側にしてみればまさに邪魔な存在となっていたのである。
1867年9-10月期の大久保利通の日記には、芸州という文字が頻繁に出てくる。
たいして、竜馬や後藤の大政奉還運動についてはほとんど触れていないのである。

薩摩藩は土佐藩の軍事力を期待して薩土盟約を結ぶ。
ところが後藤が兵を1人も連れてこないで上京すると、
さっそく薩土盟約を破棄し、武力討幕へ踏み切るのである。
薩摩藩は長州藩と連絡を取り、芸州藩をも連れだし武力討幕の工作をするのである。
大政奉還の工作と、討幕の密勅を出させる工作の競争が行われたのである。
結果的には大政奉還が先に成立するが、1867年12月の王政復古の大号令により、
討幕軍が出兵するのである。
竜馬なき後の後藤は、ただ西郷等について行くしか出来なかったのである。

坂本竜馬の行動は個性的で、変転きわまりないものであった。
勝のもとでの修行中は、むやみな行動は起こさないのである。
ただひたすら’時を待ち’、自己の確立のため努力するのである。
航海学を修めた竜馬は、’海軍屋’という触れ込みで薩摩に取り入るのである。
やっと周囲に自らを認めさせたのである。
’海軍屋’は次に’政治屋’にもなる。
そして薩長同盟を画策し、これを実現させる。
’海軍屋’と’政治屋’として成功を納めた竜馬は、
自らの条件を最大限呑んでくれるところと契約を結ぶのである。
そこには封建的で、規律を重要視する武士の考え方はない。
契約という商人的な考え方のもとに、彼は行動しているのである。

土佐藩という後援者は、竜馬にとってかなり融通の利くものであった。
またその権力者である後藤と意気投合することで、
彼は独自の路線を次々に展開するのである。
しかし彼の考えを支持するものは、後藤たちぐらいであった。

そもそも竜馬の大政奉還論は、具体的な行動が伴っていないものであった。
そのことが薩長側から否定されていった原因である。
竜馬自身は兵力による革命も認めていた。
大政奉還期の彼の考えを次に示す。
「将軍建議ヲ容レ大政ヲ奉還スルモ、天下ノ現況ハ危機一髪ノ間ニ在リ。
(中略)開戦ハ到底避ク可カラズ事」
(『坂本竜馬日記』下巻173-174頁)

しかし竜馬の考えは、容堂には届かないのである。
彼は身分が低く、実際に容堂と会談できるのは後藤であった。
容堂は建白書を出すことにより、大政奉還を実現させようとする。
確かに実現にこぎつけたが、建白書という紙切れだけで革命が出来ると考えている点が、
封建諸侯の限界といえよう。

竜馬は封建諸侯の限界と、薩長側からの信頼の喪失の間に立たされるのである。
ここにおいてもたも、彼は自らの活動場所がなくなるのである。
自ら行動しても結局封建社会の構造に直面し、何ら思惑通りにはいかないのである。
その時においても彼は、あらゆる手段を模索するという姿勢は忘れないのである。
イカルス号事件の時期、佐々木にキリスト教徒を煽動し、革命を遂行させようとも提案している。
佐々木はこれに関し否定的で、納得はしていない。

大政奉還期の竜馬は薩長同盟の締結と、海援隊を成立させたという自信をもっていた。
しかしこのことは、彼がひとりよがりに活動をしてしまう原因になったのである。
自己を確立させ、周囲に自らを認めさせた彼だが、自己を発揮することにより、
周囲から遠ざけられていくのである。

しかし竜馬が、自らの勢力をつくることに成功したのは事実である。
土佐の下層階級に生まれた彼が、各藩の間を駆けずり回ったのも事実である。
一介の浪人が、何万両もする艦船を手にいれ活動する。
各藩の重要人物と会談し、薩長同盟や大政奉還に参加。
あげくの果ては徳川御三家を相手に、堂々の喧嘩をするのである。
しかもこれを打ちまかす。
彼はまぎれもなく’自由人’なのである。
そして’自由’を手に入れるために、目先の事件に加わらずにいるのである。
自己の最大の目的:艦船をもち、世界を股に掛ける、にまっしぐらに突き進むのである。
そこにはいつでも、自己を見失わないという姿勢が見られる。
’自己の確立’のみが’自由’になれると、彼は示してくれているのである。

坂本竜馬という名は、あまりにも有名である。
彼は幕末の志士のヒーローとして描かれ、数々の小説などにも登場する。
現実の竜馬はどのようなものであったか、
彼自身の手紙や周囲の者の文書から迫ってみた。
しかし彼をとりまく状況は複雑で、特に志士としての活動を始めた頃までの文献が残っていない。
今後はさらに関係文書を調べ、坂本竜馬やその周囲の問題にも取り組んでいきたいと思う。

坂本竜馬関係年譜
<参考文献>

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