第2節 海援隊

第2節 海援隊

ユニオン号(長州名:乙丑丸、薩摩名:桜島丸)に乗って下関へ来た竜馬は、
高杉晋作と会談し、幕長戦争に参加するのである。
その時の模様は「乙丑丸は即ち薩藩の所謂桜島丸なり。
当時坂本龍馬、海援隊士と共に之を操縦し来りて馬関港に在り、
高杉晋作説きて此戦いに加はらしめしない。(中略)
乙丑丸は門司を砲撃すること数十発にして馬関に帰り、
庚申丸錨を投じて止り、大に戦ひて敵の砲台を破る」
(『坂本龍馬日記』上巻237頁)とある。
この戦いの後、薩摩藩士として長州藩主にも拝謁している。

7月には薩摩に向かい、27日までに長崎に到着している。
薩長同盟・馬関戦争と奔走してきた竜馬だが、
自ら作り上げた亀山社中には乗るべき船が無くなっていた。
前述したようにユニオン号は、この戦争の後、正式に長州海軍局へ渡されたのである。

その中でも竜馬は、隊員たちが船に乗れるように努力を払っている。
大洲藩からの要請により社中のものを派遣したり、
自ら(打開策を探ってか)再び薩摩に行ったりしている。
三吉慎蔵にも社中の窮状を訴える手紙をしたためている。
その中では「水夫らに泣々いとま出したれバ、皆泣々に立チ出るも在り、
いつ迄も死共に致さんと申者も在候」
(7月28日付三吉慎蔵宛龍馬書簡『坂本龍馬日記』上巻240頁)とある。
その後幕府が金を出し、社中の水夫たちを買収しようとしているが、
それに釣られる者はいないと書いている。
竜馬の魅力の一端がうかがえる。

社中の運営と同時に、政治的な方面での活動も積極的になるのである。
8月末頃、越前藩士の下山尚と会談し、大政奉還を説いている。

この背景には将軍家茂が8月に死亡し、長州征伐も幕府の事実上の敗北で終わったことがある。
誰の目から見ても幕府の権威が失墜し、
それに変わる新たな権力機構の成立が望まれていた時期であった。
その動きをあおるかのように幕府はフランスとの関係を深め、
国土の一部を犠牲にしてまでも自己の権力を維持させようとしていた。
幕府の一連のこうした動きは、薩長と交流が深いイギリスから伝わってくる。
当然薩長側は、幕府に対抗しうる早期の体制づくりを目指すのである。

一方下山は竜馬の意見を理解し、熊本の横井小楠にそのことを話す。
「九月廿日、熊本ニ著し横井ニ面晤シ坂本ト談ジ事ヲ告グ。
横井、手ヲ拍テ歎ジテ云フ。
今日ノ事豈ニ他アランヤ、天下此ノ任ニ当ル、岳公ヲ置テ求ム可カラズ」
(『坂本龍馬全集』666頁)
横井も松平春嶽が大政奉還を建白することに賛成を示している。
10月24日帰藩した下山は、春嶽に奉還論を進言したが取り上げられなかった。

この頃中岡慎太郎も10月26日に書いた【窃ニ知己ニ示ス論】の中で、大政奉還を説いている。
その中では土佐藩の公武合体策を批判し、’助徳川論’として大政奉還を示している。
内容は竜馬とほとんど変わらないもの、といっていいのではないだろうか。

竜馬は勝のもとで修行している際に初めて大政奉還論を聞き、
この論に関しては彼が個性的であるとはいえない。
しかしこの後、中岡は武力倒幕路線を推進し、薩長も平和的な有力大名による幕政改革をあきらめ、
軍事力による革命を目指すのである。
一方竜馬は大政奉還論を提唱し続けるのである。
あきらめのよい中岡等と違って、彼は一つの策でも最大限使いきることを考えるのである。
とにかく竜馬は自らの勢力の維持に頭を悩ませながらも、政治に関しても積極的に
活動しているのである。

10月には薩摩藩の支援により、大極丸を購入する。
そして1ヶ月後の11月に、土佐藩士溝淵広之丞と対面する。
溝淵はこの頃、長崎に砲術留学をしていたのである。
竜馬と溝淵の対面は何を意味するか。

第二次長州征伐が失敗したことを受け、土佐藩内においても変化が起き始めていた。
安易な公武合体運動がもはや机上の空論となりつつあることを、
土佐の藩府も理解し始めたのである。
そのことが佐々木高行を太宰府に派遣したり、
後藤象二郎を長崎に派遣させたりすることの要因になるのである。

年の暮れから翌1867年にかけて一旦長州へ行った竜馬は、
京都の情勢を中岡から聞き、1月11日再び長崎に戻る。
長州では溝淵を桂に会わせ、彼に啓発を促す目的もあったようである。
13日松井周助と溝淵の仲介により、
竜馬は土佐藩の若き宰相後藤象二郎と会談するのである。
「伯の長崎出張は谷の如き上士勤王党と融和し、
坂本の如き下士勤王党とも融和するの好機会を得たり。
して伯は一大益友を得たり。一大益友とは坂本龍馬也。
伯、松井周助を介して坂本を清風亭に招く。坂本行く。
部下の誰にも秘したる狎妓、思ひがけずも已に座に在り。
名はお元、年十八、気質頗る活溌也。溝淵広之丞、山崎昇六の二人もあり。
伯一笑坂本を迎へ、一見旧の如く紅燈緑酒の間、互に胸襟を被きて、一夕の歓を遊せり」
(『坂本龍馬日記』下巻11頁)

竜馬が武市瑞山を投獄した責任者である後藤と会うのは、かなりの反対があった。
「坂本其の寓に帰るや、社中の者共は如何にと問ふ。
坂本は之に答ふる様『近頃土佐の上士中に珍らしき人物ぞ』と。
其の故はと聞かるると、坂本は為めに二個條を示したり。(中略)
然れども一同半信半疑の体にて、全く首肯する者はなき程にてありき」
(『坂本龍馬日記』下巻12頁)とあり、
隊士が竜馬と後藤の会談を理解しなかった様子が分かる。
現実に長崎にいた後藤を海援隊士が殺そうとして、それを竜馬が止めている。

自らに近寄りつつきある有力な協力者を、
竜馬はここでもあくなき探求心で得ているのである。
薩摩藩よりも堅実な協力関係を持ちうる土佐藩と結びつくことにより、
自らの目的を遂行させていく。
後藤と結びつくことへの姉の批判に対し、彼はその理由を述べている。
「中にも後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも、志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候。
(中略)私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより、
廿四万石を引て天下国家の御為致すが甚よろしく、
おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心がおよぶまいかと存候」
(6月24日付乙女・おやべ宛龍馬書簡『坂本龍馬関係文書』1巻304頁)
三吉にも後藤のことを「近頃の人物ニて候」
(2月16日付三吉慎蔵宛龍馬書簡『坂本龍馬全集』171頁)と記している。
桂にも後藤と出会ったことを報告している。
いかに彼が後藤との出会いを重視していたかが分かる。

2人の会談の結果、亀山社中は危機を脱するのである。
亀山社中は海援隊と名を変え、土佐藩から身分の保証を受け、
財政的にも援助を受けることができるようになるのである。
すなわち2月には竜馬の脱藩罪が許され、
4月10日正式に海援隊隊長を命ぜられる。
ほぼ同時期に「海援隊約規」が起草されたものと思われる。

ここに竜馬は安定した自らの勢力を作り上げ、思いのままに活動ができるようになるのである。
同時に土佐藩さえも巻き込み、討幕運動に奔走するのである。
もちろん竜馬によってのみ、土佐藩が動かされていったわけではない。
中岡の論文によって触発されたり、後藤・乾退助・福岡孝弟・佐々木高行・谷干城といった
上士が、こぞって薩長の反幕路線に興味を抱き始めたということもある。
また事実上の権力者である容堂は、参政の後藤を信頼し、
過激になりつつある乾をも罷免しきれずにいたのである。

その上士たちがこぞって竜馬や中岡のもとに意見を聞きに来たのだから、
土佐藩における2人の立場はおのずと強まるのである。
中岡は数策の論文を土佐に送って、彼らに影響を与えている。
【時勢論】(1865年冬)、【窃ニ知己ニ示ス論】(1866年10月26日)、
【愚論窃ニ知己ノ人ニ示ス】(1866年11月)、【時勢論】(1867年夏)の以上4論策である。

しかし中岡が数々の論文を書き、乾等と数多く会談し、徐々に土佐藩を変革に導いていったのと
比べると、 竜馬は全く別のやり方で、一気に土佐24万石を左右する立場にいたったのは
個性的である。
海軍・商社活動といった一見幕末の政治活動に関係の無いような行動をとりつつ、
実はこれらの活動を媒介にして巧みに各藩の要求を満たす立場に入り込む。
そして土佐藩との連携により、彼はより個性的な活動を展開していくのである。

さて、その活動の基盤(実は活動の目的と言った方が正しいかもしれないが)となった海援隊とは、
どのようなものであったのだろうか。
「国を開らくの道ハ、戦するものハ戦ひ、修行するものは修行し、
商法ハ商法で名々かへり見ずやらねバ相不成事」
(5月5日付三吉慎蔵宛龍馬書簡『坂本龍馬関係文書』1巻275頁)
と竜馬は基本的に考えていたようである。
その目的は’運用射利、応援出没、海島を開き五州の与情を察する’などとなっていた。
またその勉強の内容は「政法・火技・航海・汽機・語学」などである。
さらに出版活動の計画さえもあったのである。
商業的活動により資金をつくり、それをもとに国家回天の事業を押し進める。
それを竜馬は目指していたようである。
そこには封建的な階級は存在せず、隊長である竜馬自身も隊員たちと同じ額の手当を貰っていた。

「海援隊約規」には「本藩を脱する者、他藩を脱する者、海外の志ある者、皆この隊に入る」とあった。
また出身階級も様々で、武士はもとより町医者・村役人・鋳掛屋等とおよそ封建色が薄かった。
総勢約50名。うち隊士22名で、他は水夫などである。
隊士の内12名が土佐出身で、越前や紀州出身の者もいた。
西洋的な制度のもとで、彼らは「戦いする者は戦い、修行する者は修行し」たのである。

しかし実際の隊の活動はきびしいものであり、商業的な活動では目立った業績はない。
薩摩藩や土佐藩に借金ばかりし、完全には封建的拘束力の外には出られないところに
限界が感じられる。
各藩が確かに海援隊を利用していたが、
それでも竜馬も反対に各藩(封建的勢力)を利用していたのである。
確かに彼は艦船を手にいれ、自己の目指す目的のために活動したのである。

第3章 自己の歪み
第1節 船中八策

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