第2節 大政奉還

大政奉還という考えは、竜馬独自のものではない。
政権がたまたま徳川氏に預けられているという考えは、1846年すでに徳川斉昭が示している。
「東照宮以来、徳川ノ天下ニ候ヘ共、徳川ノ天下ト定リ候儀ニハ無之、天下ハ天下ノ天下ニ候」
(7月28日付阿部正弘宛徳川斉昭書簡『懐旧記事』147-148頁、井上勲「大政奉還運動の形成過程」
『史学雑誌』81編11号1541頁による)とある。
つまり政権は本来朝廷のもので、幕府はその政権の代行者にすぎない、
という事は明白な事実だったのである。

その事実のもと1863年、すでに勝海舟が江戸城において、
幕府政権の返上を主張しているのである。
竜馬自身も1866年、越前藩士下山に大政奉還を説いている。
勝とともに幕府開明派の一人とされる大久保も、大政奉還論者である。
松平春嶽の回顧によると「大久保越中守大目付勤役中ナリ、進テ云ク、(中略)
其時幕府にて掌握する天下之政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家ハ諸侯の列ニ加リ」
(『松平春嶽全集』1巻304頁、井上勲「大政奉還運動の形成過程」
『史学雑誌』81編15号1546頁による)とある。
この考えは大久保以外の人には理解できず、大笑されたとある。

勝や大久保、そして下山の主君の春嶽も幕府側の人々であった。
具体的な行動を起こすには、あまりにもリスクが大きかったのである。
当人たちの心情も複雑なものであったに違いない。

そこにいたのが竜馬だったのである。
竜馬の大政奉還運動の契機について
「何らかの反幕行為を意図する場合、『然共、中々、時がいたらず』
(『坂本竜馬関係文書』135頁)と状況を判断したのは、一人坂本竜馬のみではなかった。
『時がいたらず』とすれば、作為的に『時』を招来する以外にはない。
かくて、『時』を招来する役割を担うものとしての大政奉還論のアイディアが、坂本竜馬において、
思い起こされ活性化されるに至ったわけである」
(井上勲「大政奉還運動の形成過程」『史学雑誌』81編11号1535頁)とある。
彼は勝や春嶽といった反幕府側の事情も理解し、両者の中間に存在していたのである。

そこでタイミングよく大政奉還を提唱するのである。
幕府側には政権を返上することにより、徳川家の崩壊を押さえることが出来ると説く。
薩長側には幕府が政権を放棄すればそれでよし、
もし放棄しない正式に武力倒幕できる口実になると説くのである。
実際彼自身も京都で大政奉還を説く一方で、
長崎ではオランダのハットマン商会よりライフル銃1300挺を購入している。
そのうち1000挺を土佐藩に送り、いざ武力倒幕というときの為に備えさせているのである。

しかし一連の竜馬のこうした動きは、周囲のものには混乱を招くものであった。
幕府側にしてみればいいように政権を放棄させられ、
後の祭りになりたくはないのである。
薩長側では、幕府が政権を放棄するはずがない、
今ここで時期を逸すると2度と武力倒幕の機会は無くなると考えたのである。
しかも大政奉還の活動中にもかかわらず、
竜馬はイカルス号事件に巻き込まれ長崎へ行ってしまうのである。

海援隊士が長崎で、イギリス軍艦イカルス号の水兵2人を殺害したというのである。
竜馬は7月から9月までの間、その事件のために長崎にいたのである。
大政奉還のために竜馬とともに活動していた佐々木も、
事件解決のため長崎に来なければならなかった。
その間にも8月14日には三吉慎蔵に手紙で、友藩による連合艦隊結成の必要性を説いている。
また佐々木には大政奉還が挫折したときのため、
「キリスト教徒を煽動し、日本を混乱させよう」とも提案している。
自らの目的を果たすためには、あらゆる手段を試そうとする意志がここにも感じられる。

イカルス号事件を処理した後、竜馬は再び京都に戻る。
彼は自ら慶喜の懐刀である幕府若年寄格永井尚志と会談する。
しかし最早浪人の出る幕ではなかった。
マリアス・B・ジャンセンは「この時期の諸決定に坂本龍馬の演じた役まわりは、
比較的じみなものであった。それというのも、最高水準で協議が行われているときに、
仲介役ないし煽動者としての浪人の役割は、以前ほど重要でなくなっていたからである」
(マリアス・B・ジャンセン『坂本龍馬と明治維新』322頁)と述べている。
後藤、小松、芸州藩の辻といった家老クラスのものが、幕府に対し大政奉還を迫ったのである。

10月3日土佐藩から幕府に対して、大政奉還を求める建白が提出されたのである。
10月13日慶喜は、在京40藩の重臣を二条城に集めるのである。
登城する後藤にあてて竜馬は
「御相談被遺候建白之儀、万一行ハれざれば固より必死の御覚悟故、
御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷の為、
不戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候」
(10月13日付後藤象二郎宛龍馬書簡『坂本龍馬関係文書』1巻419頁)
と必死の覚悟を促している。
彼がここまで激越な文章を書くのは、珍しいことである。

翌14日慶喜は朝廷に政権奉還の上表を行う。
そしてついに1867年10月15日、大政奉還勅許の御沙汰書が慶喜に下されたのである。
奇しくも14日には討幕の密勅が薩長に下されている。
しかし幕府が政権を奉還してしまっては、討幕そのものが成立しないのである。
まさに間一髪で竜馬の構想が実現したのである。

大政奉還が実現した後、竜馬は早くも16日には「新管制擬定書」を作成している。
さらに新政府の財政を考え、三岡八郎の意見を聞くために越前に赴くのである。
大政奉還に満足せずに、さっそく新国家形成の構想を練るのである。
また海援隊士を長崎に派遣するなどして、自らの勢力の活動にも相変わらず積極的である。
ところが11月15日中岡と会談中、十津川郷士と名乗る刺客に襲われ殺害されるのである。

船中八策以降、大政奉還まで平和革命路線と武力革命路線の間を、
巧みに周旋してきた竜馬であるが、最後は自らの立場の限界を越え、
他人にすべてを任すしかなかったのである。
実際に公の場で政策を発表したり、議論できるのは、
後藤や佐々木といった正規の土佐藩士であった。
また西郷や大久保なども、直接久光に進言できたのである。

それに比べ竜馬は、そのような動きには間接的に加わるしかなかったのである。
そこに彼の限界が見えるのである。
しかも2つの路線の妥協点で活動した結果、どちらからも中途半端に思われたのである。
最終的には薩長側からも、幕府側からも遠ざけられ、
そのうえ公式な場での発言が認められていないということもあり、
彼の活動は尻すぼみで終結するのである.

おわりに

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