第3章 自己の歪み
第1節 船中八策
海援隊を組織し、初めての活動がいろは丸の航海であった。
4月19日に長崎を出航した同船は、武器弾薬類を大坂に運んでいる。
ところが23日瀬戸内海で、紀州藩の明光丸と衝突沈没してしまうのである。
その時の紀州藩の対応の仕方は、封建主義独特の横暴極まるものであった。
会談の場は長崎に移り、竜馬は万国公法を持ち出し、それによる解決を試みる。
イギリス海軍提督に国際慣習を聞き、日本も諸外国に追いつくべく参考にするのである。
同時に長崎の色町で’船を沈めたその償いは、金をとらずに国をとる’と流行らせ、
心理戦においても優勢に立つ。
また海援隊士だけでは身分上軽視されがちなので、土佐藩参政後藤象二郎を引っぱり出し、
正式に土佐藩対紀州藩の論争に持ち込むのである。
その結果6月に、ようやく薩摩藩士五代才助の仲介により、
事実上土佐藩の勝利で事件はかたづく。
一介の浪人が徳川御三家に全く屈することなく、しかもこれを打ち破るのである。
また打ち破るためには、あらゆる手段を使っているのである。
この行為は竜馬がすでに、
既存の体制である封建主義に自らの信念を対決させることを示している。
このような事件もあり、彼はますます自らの活動をやりやすいように、
日本を改革する必要を痛感したであろう。
竜馬が長崎で紀州藩相手に談判しているとき、
京都では有力諸侯において会議が開かれていた。
徳川慶喜・島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂らが議論をくりひろげていた。
その議論の中心は、兵庫開港問題と長州藩の復権問題であった。
久光は西郷等に言い含められ、長州問題を先にかたずけるよう進言する。
それに対し、慶喜・山内は開港問題こそ最重要問題とする。
結局春嶽が、両問題を同時に解決させるよう提案し、解決にいたるのである。
容堂は会議の途中で後藤を呼び寄せるが、
薩摩藩の強引な行動に腹を立て帰国してしまう。
この会議は薩摩藩が尽力して行われたものだが、
彼らの思惑とは裏腹に慶喜側の勝利で終わるのである。
有力大名による合議制の実現が、ここに完全に終わりを告げるのである。
ここから薩摩藩は武力倒幕一本で、活動を展開するのである。
そのような状況下のもと、後藤は竜馬を連れだって京都へ上るのである。
6月9日に長崎を発った彼らは、
その船中において八策からなる政治綱領を作り上げるのである。
’船中八策’と呼ばれるこの綱領は、「議政局」という議会を設置し、
「無窮の大典」すなわち憲法を制定し、
「御親兵」を置くというのが主要な点であった。
「かなり中央集権的、かつ立憲的な国家体制が構想されていたといえよう」
(池田敬正『坂本龍馬』160頁)といわれている。
しかもここには、議政局による政府運営が示されている。
考え方によれば慶喜が議政局の責任者となることにより、
幕府が政権を投げ出し易いようにもとれるのである。
それだからこそ、土佐藩も反応を示すのである。
竜馬が長い修行期間を経て、ようやく自らが目指すものを表したのである。
15日にこの綱領が正式に土佐藩の藩論に決定し、
ここに土佐24万石を竜馬が動かしたのである。
しかし最早薩摩藩は悠長な考えではなかった。
革命には’戦い’あるのみとし、
長州藩と共に武力倒幕へ活動を展開していくのである。
その背景には薩摩藩はすでに慶喜に対して建言を行ったが、
効果を挙げられなかったことがある。
5月に「天下の政柄は、天朝え奉帰、幕府は一大諸侯に下り」
(『大西郷全集』1巻841頁)と建言しているのである。
薩長の武力倒幕に呼応するように、土佐藩においても過激派が活動を見せる。
中岡が乾を刺激し、5月にはすでに武力倒幕路線の目的で、
薩土密約が締結されているのである。
’船中八策’によると近代的な国家像がそこにはあり、
竜馬が倒幕という破壊だけを考えていたわけではなく、
建設的な考えを持っていたことが分かる。
しかし反対に考えるならば、彼は安易に倒幕を考えていた、ということもできよう。
でなければ、より徹底的な倒幕運動に奔走したであろう。
この時期薩摩藩や長州藩は芸州藩をも連れだし、
武力倒幕に躍起になっているのである。
前述したように平和的な会議における革命は、5月にすでに崩壊している。
そして幕府はフランスと結び、本格的に幕府のための日本再構築をもくろんでいた。
一方薩長両藩は、ペリー来航以来数々の紛争を体験している。
両藩とも外国艦隊の砲撃を受け、攘夷が不可能なことを知る。
寺田屋の変や池田屋の変・禁門の変を経て、勤王志士たちの犠牲を払っている。
西郷も桂も自らがその紛争を体験しているのである。
当然幕府権力が揺らいだとはいえ、崩壊させるには、
かなりの勢力が無ければならないという意識があるのである。
しかし竜馬は、このような動乱を体験していないのである。
唯一加わったのが、第二次長州征伐である。
「七月頃、蒸気船(桜嶋といふふね)を以て薩州より長州江使者ニ
行候時被頼候而、無拠長州の軍艦を引て戦争セしに、是ハ何之心配もなく
誠ニ面白き事にてありし。(中略)人の拾人と死する程之無なれバ、
余程手強き軍が出来る事に候」
(12月4日付権平等宛龍馬書簡『坂本龍馬全集』130頁)
と全く危機感が感じられない。
その竜馬が平和解決策を持って、京都に登場するのである。
薩長はもとより、芸州藩、中岡までも武力倒幕を目指しており、
彼の活動は前途多難のものであった。