第2章 自己の発揮
第1節 薩長同盟

勝の保護を受けられなくなった竜馬は、新たに活動できる場所を確保しなければならなくなった。
1864年8月彼は薩摩藩の西郷隆盛と会談している。
「西郷は馬鹿である。併しその馬鹿の幅がどれ程大きいか分からない。
小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」(池田敬正『坂本龍馬』104頁)
とは竜馬が西郷を評した言葉として有名である。
実際にそのような印象を持ったかどうか確証はないが、
確かに西郷には人を引きつける力があったのであろう。
竜馬の仲介で勝も西郷に会い、西郷は勝の見識の高さに感服したという。

神戸海軍操練所が閉鎖されて、勝や竜馬が新しく求めた支援先は
その西郷のいる薩摩藩であった。
経済的にも政治的にも強力な薩摩藩は、スポンサーとしてはうってつけである。
また薩摩藩としても、アメリカまで行った勝の弟子たちを、うまく利用しようとしている。
西郷とともに活躍していた薩摩藩の重臣小松帯刀が、大久保利通にあてた手紙で
「神戸勝方え罷居候土州人、異船借用いたし、航海之企有之。
坂元龍馬と申人、(中略)右辺浪人体之者ヲ以航海之手先ニ召仕候法は可宣と、
西郷杯滞京中談判もいたし置候間、大坂御屋敷え内々御潜メ置申候」(『坂本龍馬全集』576頁)

薩摩藩の利害と竜馬の利害が一致し、二者ともに新たなる動きを示し始めるのである。
幕府の軍艦奉行とともに行動していた竜馬が一転して、
やがて討幕勢力の中心となる薩摩藩と行動を開始するのである。
ここに竜馬の現実を把握し、その中で最良の方策を実行していくという意志が感じられる。

1865年竜馬はついに薩摩に入国する。
3年前に拒まれた国に、ようやくたどり着くのである。
自らの努力が報われ始めた瞬間である。

この時期、幕府は第一次長州征伐を行い、長州藩に対し大打撃を与えようとしていた。
これに非難を浴びせたのが西郷隆盛であり、長州藩に対し寛大な処置をとった。
薩摩にしてみれば、幕府をこのまま援助していると強大な権力を持ち、
諸藩が政策に関与できなくなることに対して警戒心を抱いたのである。
これ以降薩摩は急速に反幕的になっていく。

また長州征伐における長州藩の処置の中で、五卿問題があった。
三条実美らを長州から太宰府に移すということである。

中岡慎太郎と西郷はこの問題に関して会談している。
中岡は西郷の考えがわからず、いざとなれば刺す覚悟でやってきたが、
西郷に説き伏せられたとある。
西郷もまた中岡のことを「頗る勇者」と見ている。
ここに薩長同盟の端緒が見える。

薩摩藩の幕府に対する変化と、長州藩のあくまで幕府に対抗する姿勢を周囲の人々が感じとり、
必然的に薩長同盟の成立が待たれたのである。
薩摩藩では幕政改革を期待し、それに協力してきた。
その結果薩摩の立場を強めるというもくろみがそこにはあるのだが、
幕府は自己の利益ばかり追求し、諸藩に対し抑圧的な態度をとる。
薩摩藩の公武合体運動は、このあたりから倒幕運動へと変化していくのである。
長州藩においては数々の暴挙を経て、
ようやく少しは冷静に状況を見つめ始めたのである。
第一次長州征伐直後成立した親幕的な藩政府を、高杉晋作率いる奇兵隊の
鮮やかなクーデターで覆し、 藩論を一気に勤王に持っていくのである。

また両藩に共通しているのはこの時期、二人のリーダーシップを発揮する人物がいたことである。
薩摩においては西郷隆盛・大久保利通、長州においては桂小五郎・高杉晋作である。
これらの中心人物により藩内体制が確立し、
安定した体制で日本国内の問題に対処することができたのである。
暴挙を経て冷静になっていったのは長州藩だけでなく、勤王浪士たちもそうであった。
彼らは京都における一個人における勤王行動(暗殺など)に限界を見いだし、
統一された勢力を求めていたのである。

そのような背景の中、竜馬は薩長同盟を成立させるべく奔走を開始するのである。
5月16日に鹿児島を出た彼は、19日に肥後に入り横井小楠に会う。
さらに23日には太宰府にいたり、翌日三条実美らに拝謁する。
「同二十七日再び謁するや、其の抱持する所の薩長和解の胸算を述べて退出し」
(『坂本龍馬日記』上巻160頁)とある。
竜馬と三条が何を話したかは明確ではないが、長州系公家の三条と会談しておけば、
長州での説得を有利に進められるのは間違いないことであろう。

しかし『坂本龍馬日記』を100%信用することはできない。
当時自らの活動の挫折を味わっている竜馬が、
薩長同盟という政治の重大事態を考える余裕が果たしてあったのであろうか。
確かに勝のもとで海軍を修行中の時であっても、松平春嶽や大久保一翁といった人たちと会い、
政治について考えるところがあったであろう。
しかしこの時期彼はまだ’聞く側’であって、
自らの意見を他人に述べるまでにはいたってないのである。

当時幕府の政策では、長州再征が主張されていた。
それに反対するからこそ、薩摩は幕府に対し警戒心を強めている。
長州再征問題こそ日本の最重要問題であった。

岩倉具視旧宅にある対岳文庫より発見された記録によると
「慶応元年乙丑(一八六五)四月、幕府再ヒ征長ノ役アリ。
直柔独歩肥後ニ至リ、横井平四郎ニ面シテ曰ク。
聞ク、幕府再ヒ長州ヲ討ツト、貴藩之ニ応援スルノ説アリ、
真ニ然ルヤ否ヤト」(『坂本龍馬日記』上巻154頁)とある。
竜馬は当時雄藩の一つである肥後藩の姿勢を、確かめに行ったのではないだろうか。
その後太宰府に行き、初めて薩長同盟締結に関する動きを知ったのではないだろうか。

五卿のもとには、中岡をはじめ土方久元といった土佐脱藩浪士たちが、
早くからつき従っていた。
しかもこの時期、中岡と土方は薩長同盟のために京都へ行っていたのである。

この動きを太宰府で聞いた竜馬は、中岡等の動きと自らをあわせることにより、
薩摩での立場を強めようとしたのである。
実際薩長同盟締結の奔走中、閏5月頃に亀山社中の設立となっている。
前述の小松帯刀の手紙の通り、ただの海軍屋としかみられていない竜馬にしてみれば、
薩長同盟を画策することは自らの立場を強める格好の道具だったのである。

最近発見された玉里島津家文書に、
竜馬が薩摩藩の使い走りのようなことをしていたことを裏ずける記述が見られる。
「追々 末五月六日桂小五郎山口え(カ)参リ面会(中略)長州の論とハかわり余程大丈夫」
(1865年閏5月5日付渋谷彦助宛龍馬書簡『玉里島津家文書』)とある。
この中で竜馬は桂が他の長州藩士と違い、薩摩に悪い感情を抱いていないと書いているのである。
さらに、ある薩摩藩士が西郷隆盛に、
竜馬の活動状況を知らせる書簡も見つかったのである。
その中では竜馬を長州に送り込んだとしているのである。
その目的は薩長和解に向けての事情探索だと述べている。
これによると竜馬は西郷の命で、薩長同盟の工作員として働いていたことになる。
薩摩としてみては、自藩と並び立つくらい強力な勢力の長州藩と結びつくことは、
幕府に対して脅威的な勢力になると考えたのであろう。

竜馬は5月28日に太宰府を出発し、閏5月1日に下関に着く。
6日に桂と会い、同盟の話を進める。
土方も3日には下関に着いており、竜馬とともに桂の説得に当たる。
一方中岡は薩摩に向かい、西郷を呼び出していたのである。

ところが21日中岡は1人で下関に現れた。
桂は烈火の如く怒り、薩摩側から使者をよこし、
さらに薩摩の名義をもって長州が艦船などを購入することができるようにすることを条件に、
同盟への道を二人に提示した。
亀山社中はこの艦船購入の条件を実現させたのである。

薩摩藩にしてみれば、浪人結社を使うことにより、責任転嫁をはかることができる。
竜馬にしてみれば、そのおかげで艦船を持つことができ、
自らの目的を果たすことができる。
両者の利害関係の一致が見られるのである。

竜馬と中岡は29日には下関を発ち、西郷を説得するべく京都に向かっている。
西郷は桂の申し入れを受け入れ、さっそく伊藤俊輔と井上聞多が長崎に派遣されている。
亀山社中の近藤長次郎が中心となり、伊藤と井上を小松帯刀に紹介し、
先の桂の条件を実現させたのである。
この時長州藩が薩摩藩名義で購入した船がユニオン号である。
ユニオン号は薩長の周旋をした亀山社中の隊員たちが、
運行するよう取り決めが出来ていた。
竜馬の勢力が初めて活躍した瞬間である。

竜馬自身は西郷と会談した後長州に戻り、薩摩が長州再征に反対していることを報告する。
その報告を受けた山田宇右衛門等の手紙に
「薩藩西郷等大に尽力致候得共、其詮無之、右に付早蒸気にて早急帰国、
率兵而登坂、兵力を以て再度押止め度との策之由。
然処薩藩、米不足に付、於馬関乞請度に付、旁之意味伝達として良馬事罷越候由」
『坂本龍馬全集』581頁)とある。
この手紙により薩摩藩が確実に反幕府の姿勢をとっていることが明らかである。
また長州に対しても、米を要求するという内容が見られ、
薩長同盟のもとにおいて両藩が歩み寄ろうという意思が確認できる。

それを裏ずけるように12月初旬に滞京中の西郷等の使者として、黒田了介が下関へ来る。
12月25日桂は彼と共に下関を出発している。
竜馬も三吉慎蔵と共に1866年1月10日に京都へ向かう。
1月19日伏見寺田屋に着いた竜馬は、翌日京都の薩摩藩邸に行く。
そこで彼は同盟についての話し合いが進んでいないことを知る。
「日本国を救はんが為めなれば、一藩の私情は忍ばざる可らず」(『坂本龍馬全集』684頁)と
竜馬が西郷と桂を説き伏せるのである。
その結果22日に、薩長同盟は成立するのである。

しかし薩摩藩側では
「十八日の会合で愈両藩の連合決定し木戸等は帰途に上ることになっていたから、
二十日の夜に別宴を開いたことが明かである。
また薩邸に於ては、大久保が二十一日に出発して藩に帰り、其情況を久光、
忠義の両公に報告することに決した。(中略)
坂本の入京は二十日で、即ち木戸の一行が帰藩することとなり、別宴を開いた日である。
会、坂本が着京したから、その出発を延期し、二十一日更に会合したのである」
(『坂本龍馬日記』上巻204頁)となっている。
どちらが正しいか判断できないが、竜馬が維新の転換期にいたことは間違いない。

『坂本龍馬全集』を頭から信頼できないとしても、そこに書かれた「日本国を救はんが為めなれば」
というセリフは、竜馬そのものをよく表していると考えて間違いないであろう。
脱藩者であるからこそ、郷士の次男であるからこそ、堅苦しい体面や体裁を気にしないのである。
そして幅広い吸収力とともに、現実的で冷静な見解のもと、
与えられた条件の中で、できるだけのことをやり遂げようとする姿がそこにはある。

24日寺田屋に戻っていた竜馬は、伏見奉行所の襲撃を受ける。
三吉慎蔵とともに戦い、動脈まで達する傷を受けながらも逃げ延びるのである。
この時の彼の行動も、当時としては個性的なものがあった。
剣術を極めた男でありながら、ピストルだけで応戦しているのである。
そしてかなりの人数に囲まれ三吉が「然時ハ猶敵中に突入り戦ふべし」と言ったのに対し、
「此間に引とり申さん」(2月6日付木戸孝允宛龍馬書簡『坂本龍馬関係文書』1巻201頁)
と答えている。
さらに「最早逃路アラス、此処ニテ割腹シ、彼レノ手ニ斃ハヲ免カルニ如カスト云フ。
坂本氏曰ク、死ハ覚悟ノ事ナレハ君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ、
若シ途ニシテ敵人ニ逢ハハ必死、夫レ迄ナリ。僕モ亦此所ニテ死センノミト」
『坂本龍馬関係文書』2巻108頁)とむやみに死を考えずに、
生き延びるための最大限の努力をしているのである。

当時志士たちは無謀とも思える勇気によって行動し、
敵に遭遇した時は決して後を見せず、果敢に攻め込んでいった。
その結果多くの者たちが犬死にしていったのである。
その犬死にを潔しとし、敵に斬られるのは最大の恥辱と考えられた。
そのためにいざというとき、切腹してしまうものが多かったのである。

ところが竜馬は冷静に状況を分析し、逃げられるときは逃げているのである。
逃げ延びた後の再起を期しているのであろう。
逃げるといえば、竜馬に影響を与えた横井も逃げるという行為をしたことがある。
彼は江戸において刺客に襲われ、逃げたのである。
その結果、知行を召し上げられてしまったのである。

この考えのもとで三吉が薩摩藩邸にたどり着いて、竜馬も無事に保護される。
そして竜馬は3月上旬には大坂を発ち、6月まで政治の表舞台には出てこない。

鹿児島に向かった竜馬は、お竜と塩浸温泉につかり、霧島山に登っている。
日本人初の新婚旅行といわれているこの行動は、
儒教観念や封建的思想にとらわれることのない’自由な竜馬像’をよく表している。
霧島山で天の逆鉾を抜いてみた、というエピソードは有名である。
そこには古くから伝わる威厳あるものに対する恐怖感が、
竜馬には何の効力も示さないことを物語っている。

鹿児島に戻った竜馬を待っていたのは、ワイルウェフ号の沈没であった。
ワイルウェフ号はプロシャで造られた小型帆船で、
薩摩藩が亀山社中に貸与しようとした船であった。
その背景にはユニオン号の運用条件で、亀山社中と長州海軍局とで紛糾し、
結局ユニオン号は長州海軍が運行することになったことがある。
これらの問題を経て、竜馬は下関へ向かうのである。

第2節 海援隊

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