認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症初日/2017年、75才)
↑こちらの続きです。
混乱しつつも、一旦家に帰った俺は翌週また実家に行く。
その週、土曜の夜に実家に着くと母ちゃんが俺が寝る部屋で寝てた。
これはいつものことで、そしてこれまたいつものように母ちゃんは自分のふとんを持って別の部屋に移って寝た。
『あれ?先週はたまたまだったのかな?』と、これまた見て見ぬふりをした俺・・・。
とにかく俺も寝て、翌朝いつものように母ちゃんを車に乗せ温泉に向かう。
この日も牧場が隣にある温泉に行ったのかな?
さすがに前の週に行った温泉は行けないから、安全パイを取って、いつも行ってるもう1つの温泉に行ったのかも?
ただ、前の週と違って、今まで通り助手席に座った母ちゃん。
これで少し安心した俺。
ただし、会話は無い。
今までは母ちゃんがいつも喋り、俺から喋ることはほとんど無かった。
この時期からは俺から話しかけることが多くなっていった。
そして、俺が思ったのは。
『やはり、女性が強いな』と。
会話というのは雰囲気を和ますけど、男、特に息子だと、その会話が無い。
娘だったらもっと母ちゃんの認知症の進行を遅らせることができたのかも?
あ、うちだけかも知れないけれど(^^ゞ
そんなわけで色々頑張って会話を探すのだが、なかなかうまくいかずw
ただ、母ちゃんも俺もドライブが好きで(正確には俺は運転)、それだけで最低限成立はしているのだが。
温泉に着いたら、前の週と同じく母ちゃんは俺が受付するのを待っていて、さすがの俺も『母ちゃんが変わっちゃった』とあらためて確信した。
ただ、いつもと同じように俺が温泉から出てしばらくしてから母ちゃんが出てきたので、温泉にも入れ、俺や親父といった家族がそばにいれば日常生活に問題は無い気がした。
そして、温泉から出ていつものようにどこかでご飯を食べようと、この日はアウトレットパークに行った。
いつもは母ちゃんが「○○に行こう」と決めるのだが、もうそういったことは無い。
アウトレットパークでは、母ちゃんが気に入っていた中華料理屋に行く。
こういった状況になって初めての外食だが、やはり自分からメニューを決めようとしない母ちゃん。
一緒にメニューを見ながら、いつも頼んでいた「餃子定食がいい?」と俺が聞くと「それでいい」と。
うちの母ちゃんは、餃子を作るのがうまくて、味だけでなく形も最高だったw
俺の友達も母ちゃんの餃子や、あと春巻きも褒めるヤツが多くてw
そして、母ちゃんは作るだけではなく、外で餃子を食べるのも好きだった。
待っている間、手持ち無沙汰なので『何か無いかな?』と考えていた俺は、幼馴染みの英二が娘の写真を送ってきてたことを思い出した。
というのも、英二は母ちゃんをいつも気にしてくれていて、いつも「おばさん元気?」と聞いてくれるから。
そして、母ちゃんも英二のことを小さい頃から「ハンサムね~」とお気に入りだったからw
母ちゃんの前でスマホを使ったことは無いのだが、写真を見せるために渡すと「へえ~、かわいいね~」とスマホを両手に持ちずっと英二の子供の写真をじっと見つめてた。
そして、微笑んでた・・・
ありがとう、英二。
本当に感謝だよ。
前の週、いやその前の週の異変以来、母ちゃんの表情は変化が無かったから。
俺に子供がいないことを本気で悲しくなった瞬間でもあったが、英二がいてくれて良かった。
ともあれ、そんなこんなをしている間に料理が来て、母ちゃんはいつものように食べた。
元々、歯が無い母ちゃんは食べるのが遅かったのだが、この時は今までとあまり変わらない感じで食べてた。
そして、、、
毎週、俺が実家に行き、
俺から会話を探し、
母ちゃんが今まで選んでた温泉を俺が選ぶようになり、
温泉帰りにどこかでご飯を食べる。
という生活が始まった。
もちろん、平日は親父や兄貴が母ちゃんの面倒を見てる。
毎朝、親父が母ちゃんをファミレスに連れて行き朝食を食べる。
母ちゃんはとにかく出かけるのが好きで、変わる前までは90ccのバイクで入間から川越に行ったり、秩父に行ったり、鶴ヶ島の方へ行ったり、道に迷いながらも気分転換をしていた。
母ちゃんは30代の時にバイクに乗り始め、最初はCHAPPY50というSUZUKIのロータリー式のギアのバイクだった。
2台目のバイクからすぐに80ccとかのバイクにして、俺も小さい頃は良く後ろに乗り出かけてた。
それから母ちゃんは75才まで40年間ずっとバイクに乗ってた。
変わってしまう1ヶ月前に、雨の中、バイクの実技がある免許更新をしたのだが、教官も「十分大丈夫ですよ」と太鼓判を押されていたのだが、なぜたった1ヶ月で変わってしまったのだろう・・・
変わってからバイクに乗ることは無くなったが、やはり出かけるのが好きで親父をせかしてドライブをしていた。
そして、週末は俺がドライブに連れていく、ということを1年間やった。
俺が実家に行った時は、親父と母ちゃんが2人で朝ご飯を食べて帰って来る時に俺の分の弁当やサンドイッチ等を買ってきて、母ちゃんが2階に持ってきてくれるw
その後、俺は母ちゃんと温泉に行く。
温泉から戻り、実家から横浜に俺が帰る時は俺が運転し親父と母ちゃんの3人で入間市駅まで行く。
駅で俺を降ろして、親父が運転して母ちゃんと実家に帰るから。
親父はいつも一番遅く車に乗るので、その度に母ちゃんは「お父さんは?」と聞いてくる。
しかも、かなり落ち着かない感じで。
「なんで?」と聞くと「だって帰りは私が運転しなくちゃいけなくなるから。できるかな?」と言ったことが何回かあったw
母ちゃんはバイクに乗っていて、車も免許は持っているがペーパードライバー。
ちなみに巨人の張本功と一緒の時期に同じ教習所に通ってて何回か見たらしいw
分かる人は分かると思いますが、かなり古いですw
車の免許を取っただけで、バイクの限定解除も付いてきた時期ですw
母ちゃんが免許取ってすぐかな?
親父が母ちゃんに運転させたらしいのだが、箱根峠だったらしいw
メチャクチャスパルタwww
そんなこともあってか自分が運転できる(免許を持っている)ことは覚えていたから、「運転できるかな?」という言葉が出てきたんだと思う。
その度に俺は「大丈夫だよ、お父さん来るから」と言ってたw
そして入間市駅で俺が降りて見送ると、助手席からどこぞの政治家みたいに手を振りながら親父と帰って行ったw
この動画は2年目の頃だが、3年目はもう手を振らなくなった気がするな・・・
秩父の荒川沿いの温泉や、古民家の鉱泉に行ったり、奥多摩の温泉や、あきる野市の温泉、坂戸の温泉、、、
時には山梨の温泉や、もちろん、入間の温泉、川越の温泉、飯能の温泉と近場も行った。
こう考えると30ヶ所以上は1年で行っていたのかも?
もちろん、それはすべて、それまでに母ちゃんが俺に教えてくれてた温泉。
100円玉入れるロッカーであろうと、100円玉がいらないロッカーであろうと、時にはややこしい鍵であろうと、母ちゃんが変わる前から何度も行ってたからか問題無く温泉に入り、そして無事に出てきて、、、
変わってから初めて行った秩父駅前の新しい温泉も心配だったが大丈夫だった。
ただ、個人的には温泉のロッカーの鍵は統一して欲しいw
毎回、母ちゃんが大丈夫か心配だったし、俺でさえややこしく感じるから(^^ゞ
俺は『これがいつまで続くのだろう?できればずっと続いて欲しい』と思いながら車を運転し母ちゃんと温泉に行ってた。
あきる野市の温泉に行った時。
ここも何度も行ってた温泉だけど、温泉から少し歩くと橋があるので、初めてそこまで行ったんだよね。
でも、途中すべりやすい坂道があって。
だから転ばないように、ん十年ぶりに母ちゃんと手を繋いだ。
俺はかなり照れ臭かったが、俺の手をかなり強く握ってくるので『坂道が恐いんだ』と思った。
変わってしまってから、しばらく母ちゃんは無口になったが、1ヶ月くらいしてからはあまり笑わないながらも喋るようになったし、口調も声も今まで通りだった。
もちろん、過去の記憶は無く自分の年も忘れているけど。
本来年下である俺の友達の母ちゃんを、自分よりか年上だと思ってて、俺が「いや、お母さんの方が年上だよ」と言うと、「あら、おかしいわね?」とかw
あと、俺はもちろん言った。
「病院に行かない?」「病院に行こうよ?」
変わってしまう前から病院嫌いの母ちゃん。
変わってからもそこは変わらず「嫌だ。行かない」と。
「強引に連れて行くべき」という人もいるのかも知れないけど、すべての面倒なことから自由になって、温泉も行けている母ちゃんにとっては『このままの方がいいのかも?』と思ってしまった俺は、母ちゃんを病院に連れて行くことをしなかった。
2018年初めは母ちゃんが好きな川越の喜多院に行って初詣。
かなり人が多くて待ったんだが、母ちゃんは何も文句言わず急な階段も昇ってお参りしてた♪
正月は混んでたので、その2週間後にあらためて川越に行き鰻を食べたり。
鰻屋の急な階段を上がる時に店員から「大丈夫ですか?」と心配されながら、ゆっくりながらも全然昇っちゃう母ちゃんw
広い座席に何組か客がいる中、俺たちの横では教授っぽいインテリな初老?の男の人と若い女の子が食べてるのが俺は気になって仕方なかったw
ま、それとは関係無く俺は母ちゃんと話していて。
何の話をしたか忘れたけど、何かを俺が言ったら母ちゃんが鰻とごはんを大量に吹き出しながら笑って。
そういったところはやはり変わってしまったが、本能のままに自由に生きられているのは嬉しかった!
俺も「だめジャン!」と言いながら、吹き出したごはんとかを拭きとりながら『横の人たち嫌がらないかな?』と気を使って(^^ゞ
飯能の奥にある温泉に行ったり。
そして、この温泉は後々ポイントになるのだが。
その帰りに馬とポニーがいるカレー屋?レストラン?に行って。
馬とポニーを近くで見れるのは珍しく、『母ちゃんも喜ぶかな?』とも思ったし、俺も行きたかったし、元々母ちゃんも親父とここには行ったことあるらしいんだよね。
食べてる時に母ちゃんがむせたら、マスターが「辛すぎました?薄めましょうか?」と優しくて。
むせたのは辛いからではなく、一口が多過ぎちゃったからなのだけど、本当に優しいマスターだった。
すごい丁寧なカレーという感じでうまかった!
春には皇居の桜を見に行ったり。
写真を撮られることが嫌いな母ちゃんだったので、前回の橋では後姿をw、この時は『大丈夫かな?』ということで横顔を撮ってみた。
夏は、俺が小さい頃からずっと母ちゃんに連れられて行ってた母ちゃんの母ちゃん(俺のばあちゃん)のお墓に行っても、場所を覚えていたし。
むしろ、今まで以上に
- 母ちゃんは自由で
- すべてから解放されて
- 食べたいものを食べ
- 欲しいものを欲しがり
- 興味あるものに興味を示し
- 行きたいとこに行ってた
時々おもしろいことも言ってw
この時期の母ちゃんは、母ちゃん自身の友達も、俺の友達:英二、あきらとかも覚えていて。
ただ、表情の変化は少なかったけどね。
そういや、母ちゃんが変わってしまった時に、かおるちゃんが本当に親身に言ってくれた言葉がある。
「刺激があることは大事だよ」
ありがとう、かおるちゃん。
そう、だから俺はできるだけ母ちゃん自身で色々選んでもらい、俺が手を貸すのは必要最低限にして色々出かけることにしてた。
実際、今までと選ぶものが変わることもあったけど、外食する時の食べ物でも、タオルとか何か買うでも、どこか行く時でも「何を食べる?」、「どれがいい?」、「何がいい?」、「どこ行く?」と俺はまず母ちゃんに考えてもらった。
そして、その度に母ちゃんは答えたし、答えようとして答えられない時は、俺が「これでいい?」と聞きながら、食べ物のメニューなら指をさしてもらい、ものなら母ちゃん自身で手に取ってもらい、場所であれば俺が車を運転して行った。
バイクも乗ってた母ちゃんだけど、元々平気で長い距離を歩いたりもしてたので、変わってしまってからも良く出歩いてたw
兄貴もその長い距離の散歩を、良く付き合ってたみたい。
深夜で一人で歩いてた時は、狭山署のお巡りさんにパトカーで連れて帰ってきてもらったり。
お金も無いのに回転寿司やファミレスに行って食べてしまい、親父に電話がかかってきたり。
ファミレスでは、サラダバーがあるところに行ってサラダを食べてたみたい。
そういや、回転寿司もサラダバーもオーダーしないで1人で勝手に食べ物を取れるもんな(^^ゞ
この頃母ちゃんは俺に言っていた。
「お父さんがお金を持たせてくれないのよ」と。
小銭入れに入れた数百円程度は持たせていた気もするが、やはり母ちゃんの状況だとお金は持たせられなかった。
みなさん、ご面倒をおかけしましたm(_ _)m
けどね、”徘徊”と人は言うけど、俺は違うと思うんだよな。
本人は必ず”意志”を持っている。
ある夜、俺が実家に行った時。
ちょうど母ちゃんがパトカーで連れられて帰って来た。
やはり夜に一人で歩いていて(^^ゞ
警察に迷惑かけたことは理解しているんだけど、恥ずかしさもありつつ、照れ隠しかニコニコ笑いながら「ごめんね~」と。
日中、親父から「俺が来る」と聞いた母ちゃんは、俺を待ちきれなかったのか迎えに行ったんだよな。
入間から武蔵藤沢まで、てくてく歩いて。
もちろん俺は武蔵藤沢駅ではなく、入間市駅から実家に行くのだが、そこは変わってしまっているからわからなくて。
で、夜に何も持たない女の年寄りが1人で歩いてれば、そりゃお巡りさんが迎えに行くことになるわ(^^ゞ
アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症では違いがあるのかも知れないけど、俺の母ちゃんは”何か目的を果たすため”に出歩いてたと思う。
なので、俺の母ちゃんだけでなく、認知症の人が出歩いてしまうのを俺は徘徊と呼びたくない。
「ダメでしょ!」じゃなく、「どこに行きたかったの?」「何がしたかったの?」が正解な気がする。
もちろん、本人は考えをうまく伝えられないから、こっちも理解できないかも知れないけど、頭ごなしに「ダメでしょ」は良くないと思う。
実家は一軒家で、母ちゃんは2階で寝てたんだけど、夜でも起きて玄関のドアを開けて出歩いちゃうことがあった。
ただこの頃は、夜は母ちゃんが鍵を開けられないように親父がしてた。
まあ、昼でもふらっと出かけちゃって心配しないわけではないが、基本親父も『そこらへんにいるだろ』と、母ちゃんが家から離れることにはあまり注意してなかったんだよな(^^ゞ
で、いつもどこからか電話かかってきちゃ迎えに行ってたみたい。
この頃はまだ住所は言えたのかな?
銀行の暗証番号は覚えていたみたい。
名前は確実に言えた。
1年目の最後の方。
センサーが入っている靴を母ちゃんのために親父が用意した。
名前も書かれていて、どこか勝手に出かけてもわかりやすくなる靴。
最近の世の中は便利になってきたよね?
ただ、使う機会は無かったが・・・
そして、その頃の母ちゃんが、親父と兄貴のことを俺に聞いてくるのはおもしろかったw
おもしろい理由はここには詳しく書かないけど、元々母ちゃんは親父と兄貴のことを嫌ってる部分もあって。
だからからか「(私は)なんでお父さんと一緒に住んでいるの?」と聞かれることがあり、小さい頃から俺が母ちゃんから聞いてたことを伝えて、”なんで入間に今住んでいるか”、”その前はずっと横浜に住んでいたこと”、”親父と母ちゃんの出会い”などを説明した。
その度に「へえ、そうなんだ?」とおもしろがる母ちゃん。
なおちゃんやさこさん、ゆきちゃんといった俺の同級生が子育てで色々考えていることも伝えたりして、間接的に母ちゃんが俺を育ててくれたことの感謝を伝えたりして、その度に「そうなんだ~」と話を聞く母ちゃん。
みんな、ありがとうね。
そんな状況の中で俺に彼女ができた時は、満面の笑顔で彼女と電話で話して。
本当に嬉しそうな笑顔で。
その彼女が母ちゃんのことも理解した上で、電話でも色々話してくれるメチャクチャいいヤツだったから、というのもあるけどw
本当にありがとう。
お前ほど素敵で、そしてこの時の俺を救ってくれた人はいないよ。
だから、俺はみんなを母ちゃんに会わせた。
いつでもどんな時でも、俺の周りの人間は母ちゃんを好きになってくれるから。
変わってしまう前から、というか、俺が小さい頃から、俺が友達を連れてくる度に楽しんでた母ちゃん。
元々にぎやかなのが好きだしねw
だから、この時も自分から喋りはしないけど、
みんなのことを見ながら、
みんなのそばを離れず、
みんなの話を聞きながら、
変わってしまってから一番ずっとニコニコ笑顔でいた母ちゃん。
写真は太陽がまぶしくて目を細めてるけどね(^^ゞ
元々早口の彼女が母ちゃんにまくしたててた時もニコニコ笑顔で話を聞いていた。
たぶん返事はしたかったんだよ。
けどね、人のことをまず優先しちゃうから、話を聞くだけだったんだと思うよ。
初めて会ったのに普通に嫌がらず、変に思わず色々話してくれるお前のことを嬉しかったんだと思う。
でもね、この頃から母ちゃんの食べる時間が今までより、かなり長くなってきたんだよな。
だから、この日、俺はみんなと一緒に母ちゃんを食事に連れて行かなかったんだ・・・
賑やかなのが好きだったのにごめん。
そんな奴らでは無いんだけど、『みんなに迷惑かけるかな?』と思ってしまって。
そして、変わってしまってから(認知症発症後から)1年経った頃、
次の段階に母ちゃんは進んだんだ・・・
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認知症とはボケでは無く、本来の自分に還る幸せなこと(脳血管性認知症2年目始まり/2018年、76才)
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