第2節 志士への道
「十一日 坂龍飛騰」(『坂本龍馬日記』上巻60頁)
これは幡多郡中村の郷士樋口真吉の日記である。
坂龍とは竜馬のことで、この1861年10月11日に竜馬の国暇が許可されている。
竜馬は讃岐の国へ、剣術詮議のためとして高知を出立。
そのまま長州を回り、大坂へ出ている。
本格的な志士としての活動が始まったのである。
翌年彼は再び長州へ向かい、吉田松陰の筆頭弟子である久坂玄瑞に会う。
この時久坂は瑞山への手紙を竜馬に託す。
その内容は、
「乍失敬、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」
(瑞山宛久坂書簡『坂本龍馬関係文書』1巻58頁)とある。
もちろん竜馬も、この久坂の意見を聞いたのであろう。
久坂の考えには、自らの目的のためには既成概念を打ち破り、
あらゆる可能性を試みようとする意識が感じとれる。
そこには久坂の師匠である吉田松陰の影響が、色濃く反映されている。
吉田も幕藩体制の変革を意図したが、結局受け入れられなかった。
その結果封建体制からの脱却をはかり、浪人レベルでの改革を計画したのである。
竜馬が久坂と会っている同じ時期に、薩摩藩からは樺山三円の使者が訪れている。
薩摩藩主の実父であり、事実上の権力者である島津久光上京の知らせを持ってきたのである。
久坂はこの情報に対し、「勤王の大義のためならば、薩摩藩を助けねばならない」
(池田敬正『坂本龍馬』52頁)と述べ、やはり’藩’を越えた活動を意識している。
久坂との対面により、竜馬は大きく行動様式を変えることになるのである。
2月に土佐に帰国した竜馬だが、もはや瑞山の動きとは一線を画していた。
なぜなら土佐勤王党と言っても、所詮は郷士や庄屋といった下層階級がそのほとんどであり、
藩政に携わることなど無理であった。
中岡や吉村も庄屋階級の出身であった。
ところが瑞山はあらゆる手段を使っても、藩政府に自らに考えを伝えようと試みた。
そこには藩や藩主を見捨てて、日本のために尽くそうという考えはなかった。
藩という封建体制からの脱却が、彼には出来なかったのである。
実際暗殺という非常手段をも用いて成し遂げた瑞山の改革は、山内容堂という藩(封建体制)の
最高権力者の前では、一瞬のうちに瓦解するのである。その時にすら瑞山は脱藩することなく、
容堂の命じるままに切腹するのである。
竜馬は理想を追い求める瑞山の一藩挙げての勤王主義に愛想を尽かし、
3月24日沢村惣之丞と共に脱藩するのである。
「此の月二十四日の夜、沢村と共に高知城下を発す」(『坂本龍馬日記』上巻66頁)
ここで竜馬は2度目の不思議な行動をする。
当時脱藩者たちはこぞって京都へ向かっている。
3月7日には竜馬と同じ土佐藩の吉村虎太郎が、福岡藩脱藩の平野国臣・
久留米の神官真木和泉等の
挙兵倒幕計画に参加するために脱藩している。
竜馬と共に脱藩した沢村も京都へ向かっているのである。
「文久二年壬戊四月朔日、龍馬ハ沢村ト共ニ下関白石正一郎ノ家ニ達ス。翌二日、
沢村ト東西ニ手ヲ分チ九州遊歴ノ途ニ就ク」(『坂本龍馬日記』上巻69頁)
とあるように彼は下関に着いた後、京都とは正反対の九州へ向かうのである。
4月1日といえば、島津久光が1000人の兵を率いて下関を出発した日である。
身軽な浪人の身の竜馬にとっては、久光を追い越すことぐらい可能であったであろう。
この時西郷隆盛は、久光を待たずに上京したのである。
その事により彼は久光の怒りを買い、2度目の島流しにあうのである。
西郷の動きは、暴発しようとする尊攘派を押さえるためであった。
つまり薩摩藩の率兵上京は、あきらかに尊攘派と異なるものだったのである。
竜馬が下関へ着く9日前の3月22日に、西郷は下関に着いているのである。
薩摩藩の一連の動きを、竜馬は下関で知ったのではないだろうか。
実際平野や吉村は、竜馬より早く下関に着いている。
その結果平野たちは京都へ向かったのである。
たとえ平野たちが薩摩藩の動きを知ったとしても、自重したかどうかは疑問であるが。
下関から九州へ向かった竜馬は、薩摩に入国しようとする。
当時薩摩藩は他国人の入国を厳しく制限していたため、彼は九州各地を遊歴した後、
6月11日にようやく大坂に着くのである。
彼が九州を遊歴している間に、寺田屋の変が起こり薩摩藩の勤王派は同士討ちをしている。
土佐藩の吉村は捕縛され、船牢にて土佐に送り返されている。
大坂に着いた竜馬ではあるが、志士たちの中心舞台京都では活動せずに、
8月に江戸に向かうのである。
同じ頃土佐藩でクーデターを成功させた(完全な成功とはいえないが)瑞山は、
土佐藩主をかつぎ京都で活躍を見せ始めていた。
その動きに彼は全く加わることはなかったのである。
そして江戸において彼は、完全に普通の勤王志士たちとは違う行動に出るのである。